哲学する彼女。
>クーデレ系の娘が見たいです。
ヤンデレじゃないけど。
まあ、たまには健全ということで。
雰囲気の良い喫茶店だった。窓はなく、ぼんやりとしたオレンジ色の証明で照らされた店内には、大量の本とそれを収める本棚があって、古書をいくらでもただで読むことができた。変わった本も多いし、それが気に入ったら買うこともできた。ニコニコと笑う小さな店員と、ぼんやりとした背の高い店員はちょっと異様だけど、客層がいいのか、とても静かで落ち着く店だ。唯一の問題は一番安いコーヒーですら、五百円という値段を取るところだろう。大人でもきついのだから、高校生の僕らには辛辣なものがある。彼女の従姉妹が経営していると知らなければ、僕はここに来ることはなかっただろう。
「神秘とは如何様なものかしら」
相変わらず朴訥とした様子で彼女は言った。こちらを見ようとすらしない。目は文字を追ったままだ。
彼女の手元に目をやると『物理学と神』というタイトルの本が目に入った。あの灰色の表紙は確か集英社文庫の本だったはずだ。
親戚に外国人がいるらしい彼女は、ぱっと見、外国人で、日本語の小難しい本を持ってる姿は少しだけチグハグだった。
「やっぱり、君と出会えたことかな」
「三十点」
「意外と高評価だね」
「それで、どう思う?」
やっぱり表情は変わらないし、相変わらず目は文字を追い続けている。
不満はないし、僕はそれでいいと思う。
「神や魔法があるかという意味で、神秘を問うのなら、僕はこう答えよう。“神秘はあるかもしれないし、ないかもしれない”」
「不可知論」
「その通り」
一瞬だけ目が僕を捉えた。
彼女は常日頃から、そうかもしれないしそうじゃないかもしれないなんてドヤ顔で偉ぶる不可知論者を“お為ごかしの屁理屈野郎”と罵っているくらい不可知論が嫌いなのだ。集中も途切れて当然だった。
「私はこう思うの。神秘とは全体の知識と反比例するように失われていくものなんじゃないかしらって」
「大前提として、君は神秘というものを否定しないわけだね。神はいるし、魔法はあるし、龍が空を飛び、宇宙人は無実の牛を攫う、と」
「宇宙人は本当にいるわ」
ページを捲りながら、至極当然のように彼女は言う。この前は親戚に神を自称する女の子がいるっていって盛大に笑ったのを思い出した。こういう突拍子のない言葉は彼女なりの冗談なのかもしれない。
「君の宇宙人論は気になるところだけど話しを戻そうか。君の神秘を肯定する理由とはなんだい?」
「仮定として成り立つから」
「なるほど。なら僕の世界は僕以外の人間は自我を持っておらず、また意図して作られた世界かもしれず、また僕の……あるは君か誰かの夢の世界かもしれず、僕は機械かもしれず、僕の赤は君の緑で、僕の美的感覚は君にとって醜悪なものかもしれないわけだ」
意地悪な僕の言葉に少しだけ彼女は目尻を緩ませた。ちょっと嬉しい。
初歩的な認識の話だけれど、これもまた仮定として成り立つ。相互理解という言葉が、総じて誤解や思い込みという言葉に近くて、しかもそれが事実か否かということを確かめることができない以上、僕らは永遠に疑惑を持って生きなければならない。
「私ね、思うのよ。知識のない世界では宗教観や感性といったものが共通の科学と呼べたんじゃないかって。一部のそれは、偶然にも現実的な科学をなぞって、その宗教性と虚構の信頼性を高めた一面もあるでしょう。それらの虚構の知識をもとにして……あるいはそれらの共通認識を無自覚に利用して、魔法使いや魔女と呼ばれる人間は呪文を唱えながら相手に手をかざし、魔法を成立させていた。存在しないはずの怪物を頭の中に描いた。もっと宗教的に言うのなら、救世主や預言者や聖人と呼ばれる者は奇跡を起こした。……現実的な科学を知る私が見れば、いくら本人が信じていても、周りがそれを信じたとしても、それが彼らにとって当然の科学、認識であったとしても、所詮は虚構であり、共通認識足り得ないただの道化のダンスにしか過ぎない」
「言葉の通じない者同士がいくら会話しても意味が無いように、魔法というものも虚構の科学と、その共通認識を互いに持っていなければ通用しなかった、ということかな」
「その通りよ」
「ちなみに、もし君に彼らの共通認識があって、彼らの虚構の科学を信じる優しさがあったら、魔法を受けた君はどうなるんだい?」
「ギャーと叫んで、しなびたミイラにでもなるんじゃないかしら」
デフォルメされた彼女が僕の頭の中でギャーと叫んで、しなびていった。普段の彼女から想像できない感じがちょっと面白いな。
考えを見ぬかれたのか、彼女が少し僕を睨んだ。
「ま、要するに神秘とは共通認識が可能にするという話しだろ? 敵の呪文によって水が熱湯に変わったと信じて触れば、本当にやけどのように皮膚が爛れるとか、そういうさ。共通する認識を持った相手同士の中でなら確かに神秘というものは成立するし、存在すると言えなくもない。でも僕はそれを否定するよ。だって君はひとつの根本的な問題をクリアしていないからね」
「それは?」
分かっているはずなのに彼女は、とぼけて見せる。
僕がそれに気づくかどうか、試しているのは明らかだ。
「いくら君が神を信じようと、水が熱湯だと信じようと、現実を支配しているものが君の言う“現実的な科学”である以上、その理屈は成立しないのさ。イカロスがいくら空飛ぶ羽を熱心に作ろうとも、物理は彼が太陽に近づく前に、谷底に落とす」
自分を不死身だと信じても刺されれば死ぬし、血は出る。頭がいいと信じても、数学の難題を解くことはできない。火に焼かれたように感じても、着ている服まで燃えるわけじゃない。彼女がいくら自分は社交的だと言っても、冗談にしかならないように。
妄想が独り歩きしたって所詮は妄想なのだ。物理現象を越えられはしない。
「その通り。物理が支配する社会が前提であるならば、あなたの言う理屈が正しいわ」
「ならば……ということは何かあるのかな?」
「先入観よ」
「先入観?」
「あなたは現実的な物理が創始から常に存在しているという仮定において今の理屈を取り出した。それが間違いよ。私の理屈は言い換えれば世界には“共通認識によって成立する科学”と、“計測することで確定してしまう科学”が存在するのではないか、という話しだから」
つまり彼女はイカロスは飛べると誰もが信じていれば太陽に向かって飛べたのだいう。けれども、そこで空気の読めない博士くんがいやいや、それは科学的に計測したところですね、こうこうこういう数値と理屈のため飛べませんと語れば、それが世界に確定され、飛べなくなってしまうのだそうだ。
分かりやすく表現するのなら“神秘とは計測することで、その効果を失う”ということに他ならない。
計測することで確定してしまう科学は虚構の科学を常に駆逐してしまうけれど、その仮定は理屈として成り立つ。面白いな。
「立証は不可能だけど、確かにそれをありえないと否定することはできないね。世界のすべてが解明されたとしても、君の理屈は成り立つ。なんせ、計測され確定されてしまった後だからね」
そこで初めて彼女は少しだけ笑って、本から顔を上げた。自分の思考を理解してくれる誰かというものは彼女でなくても嬉しいものだ。
これこそ共通認識というやつかな。
「そういう理屈のもと、人間が計測を重ね、人の魂や存在というものを調べた時に、それらが存在しないと確定されてしまったら、世界はどのようになってしまうのかしら?」
「さっきの話しじゃないけれど、僕らは僕らがあると信じている。デカルトも我思うゆえに我ありって言ってるし。でも、僕らの手によって僕らが存在しないと世界に確定されてしまったら、存在しないものによって作られた物質や建造物は矛盾の塊だ。チリとなって消えるのかな、それとも加工される前の状態に戻っていくのかな」
「それを司る存在、あるいは現象こそ、神秘的だし、神と呼ぶべきなのかもしれない」
「確かにね」
当然の理屈で、それもまた計測可能な物理の現象だとしても、僕らにはとてもそれをただの現象だなんて呼ぶことはできない。あまりにもそれは神秘的すぎるからだ。
彼女に目を向けると、もう興味を失ったのか、視線は本に向いていた。
「どうして急にそんなことを思ったんだい?」
彼女は自分の顔を隠すように本を上げた。心なしか少しだけ、耳が赤かった。
「あなたという人に出会えた奇跡を、ただの可能性や確率論で終わらせたくなくて」
「ふうん、そうなんだ」
「ええ、そうよ」