世界を救えますでしょうか。
――世界を救えますでしょうか。
まず世界とは何かということから定義しなくてはなりません。かの有名な「我思う故に我あり」とおっしゃったデカルト氏の言葉を鑑みれば世界というものは私達の主観によるところが多いような気がします。つまり、つまるところ、そう。世界とは身勝手なものなのです。自分というものが死んでしまえば、自分という意識が消えてしまえば、世界が自分の死後、どれほど続こうが、どれほど栄華を極めようが……あるいは消滅しようが意味はありません。自分が観測できない世界をどれほど気にしたところで、私達はそこにいないのですから、しかたがありません。しがたがないと思うことすら烏滸がましいくらいに。
ですから、私は思うのです。道路に飛び出した子供を救うために勇ましく前へと足を向ける男性の行為になんの意味があるのかと。そこで救われるのなら良いですが、そこで死んでしまうのなら自己満足にすらならない。川で溺れている犬畜生の代わりに、助けた男性が風邪を拗らせ死んでしまったとして、畜生共がどれほどの意味をもたらすというのでしょうか。彼らがどれほど感謝の念を覚えるというのでしょうか。きっとそれは小さく、卑小で、矮小で、取るに足らない塵芥の何かと同じでしょう。
……生き続けることはつまるところ、世界を救い続ける行為ということになります。泥を啜るような生き恥を晒すようなことになったとしても、生きること以上に意味のあることはないのです。かっこ良く死んだとしても、かっこ悪く死んだとしても、死は死であり、主観の終わりであり、世界の終わりで、愚かな行為なのです。
幸福の王子様なんて童話は唾棄すべきとすら言えるでしょう。他人に与え続けた結果、彼が得たものはみすぼらしくも意地汚い死ではないですか。彼の世界は溶けて、消えて、おしまいです。その後、どれほどいいように誇張されようとも、彼の世界は終わったのです。そこに意味はありません。
献血なども馬鹿らしいです。自分の世界を縮めるようなことを何故、自らしなくてはならないのか。他人の世話も、他人の代わりを努めることも愚かでしかありません。それが例え、死にかけた臓器に苦しむ親友のドナーとして自分が最適な人間だったから臓器をくれてやろうなどという誇り高くも気高い行為であってもです。
愚かです。愚かです。愚かです。愚かです。愚か。愚か。愚か。
あなたは世界を救えますか? 利他的なあなたは自分という世界をこのまま救うことはできますか? 自分の命すらも他人に譲り渡そうとするあなたは、世界を救うことができますか? ――私の世界を。
私はあなたがいない世界など考えられない。あなたの友人がいくらあなたに感謝し、拝み、膝を折って、感傷たっぷりに墓前で泣き叫ぼうとも、私にはこれっぽっちも意味がない。あなたの救った犬が哀愁たっぷりにいつまでもあなたの帰りを待ったとしても、私には意味がない。あなたが救った子供が成長し、元気に何食わぬ顔で生きようとも私には意味がない。
あなたのいない世界は私の世界の終わりなのです。私は自死するしか道はないのです。ですから、そういうわけですから、あなたの親友がこのまま死ぬまで、そこにいてください。……あと一ヶ月? 二ヶ月? まあ、少しばかり長いかもしれませんが、あなたの親友が延命のためにステロイドに手を伸ばし、髪を失い、目がくぼませ、あなたに対する怨嗟の叫びとともに鼓動を止めるその時まで、ここに居てください。ここにいて、どうか私を救ってください。いつものように笑って他人に手を差し伸べるように、私の世界を救ってください。




