絶望ハイキング3
多分、私の書いたキャラクターのなかで一番会いたくない二人。
走りながら友美はクレタ島の伝説を思い出していた。宮殿の地下には迷宮があって、その暗闇の中に牛の頭を持った怪物がいる。怪物は放り込まれた侵入者を追い詰め、殺し、食うのだ。
痛む脇腹を押さえながら、息を切らして彼女は思った。あの伝説はある若者の機転によって幕を閉じたが、自分にもそんな幸運が舞い降りるだろうかと。
手を広げても、小さなナイフもなければ、道を教える糸もない。怪物はこの屋敷に確かに存在しているというのにも関わらず。
「嫌だ、死ぬのだけは、嫌よ」
最初の異変は停電だった。調べに行った人間が帰って来なかったことが第二の異変。携帯の電波が急に通じなくなったのが第三の異変。
屋敷の中で悲鳴が轟く頃には異変は異変でなくなり、災害に変わっていた。
「なんの騒ぎ……ちょっと、あなた達」
騒ぎ立てる使用人たちを叱るつもりだった。停電くらいでなんだと言うつもりだった。
横を通り過ぎる羊の群れはどれも恐怖に瞳が歪んでいた。
「えっ」
普通の廊下だった。冗談のようだった。
黒い服に見を包んだ何かが人を紙くずのように切り裂いて笑っていた。ホッケーマスクのような無機質な仮面、赤い斧と黒いナタ。
臓物を被りながら、笑う怪物に彼女は足を群れと同じ方向に向けた。向けたが、狂乱する群れたちは、こちらに逆走してきていた。
何事かと思った。が、すぐに思い知った。小さなセーラー服姿の少女が笑顔のまま、銃を乱射していた。
「なによこれ、何なの」
笑い声、悲鳴、銃声、血飛沫、臓物。ありとあらゆるものが混沌とし、押し退け合う。
どうしていいか分からなくて、彼女はその場に手をついた。手をついて、遅れて襲ってくる理解に、立ち上がり走る。怪物たちから逃げる。
逃げ道はいくらでもある。隠れる部屋はいくらでもある。助けを呼べば、きっと。そう信じて走る。階段を駆け上り、絨毯を踏みつけて走る。
ふいに前方の人間の首が落ちた。友美は止まって、目を凝らした。ワイヤーが壁にかかっていた。
誰かが言った。
「気をつけろ! 罠がある!」
見たことのない怪しい器具が地面に転がっていた。
強張った顔で誰が言った。
「気をつけてたら、あいつらが来るじゃないか!」
そのとおりだった。ワイヤーに注意して、足元に注意して、怪物から逃げるのは誰が見ても難しかった。
笑い声が近づいてくるのに気づいたメイドの一人が、その場で失禁した。
「あ、あ、あたしたち、上に向かってない? 下、下にいかないと逃げられないんじゃないの?」
恐怖は高まった。何人かが、命乞いのために怪物に向かった。何人かが、罠を超えて先に向かった。何人かが、隠れるために、部屋に入った。
友美も隠れた人間の一人だった。クローゼットの中で息を殺した。
悲鳴が轟いた。命乞いの声が轟いた。銃声が、笑い声が轟いた。
「なんで、あたしが、なんで、あのカーテン気に入ってたのに。嫌よ、高田、お父様、助けて」
「だ、誰かいらっしゃいますか……?」
戸を叩く音がした。即座に彼女は口を抑える。
そっと扉の隙間から伺ってみると、相手は怪物ではなく、メイド服を着た使用人だった。
心の底から安堵の溜息が出た。涙が溢れて、全身から力が抜ける。
「あっ、ああ、あいつらは」
「お、奥の方へ行きました。今なら逃げられます。そちらは何人いますか?」
「あ、あたしは、一人よ。待って、すぐ出るから。お願いだから、置いて行かないでっ!」
「一人……」
「ええ。ほ、他のみんなは?」
「みんなぶっ殺しちまったよ」
ゲラゲラと何かが笑った。メイド姿の女がクスクスと友美から見えない位置を見上げて言った。
「かなちゃん、早いよお」
「だってー、どーせ、こいつも殺すんだしー」
バリバリとクローゼットの扉を怪物が破る。友美は叫んだ。助けを求めて叫んだ。しかし、誰も駆けつけない。誰も助けに来ない。死んでいる者以外は先程の彼女と同じようにどこかで耳と目を閉じ、口を塞いで震えていた。当然だった。
「あれー、こいつ、あれじゃないのー」
「あらあ、御機嫌よう、お嬢様。あなたとこの屋敷の使用人は、みんな殺しますう」
「あな、あなた、あなた達何よ!?」
腰砕けで、今にも狂ってしまいそうな怯えた表情で彼女は言葉を投げかけた。声が出たのは自分のことを知っているということと、会話が通じるというところから、もしかしたら命が助かるのではないかと思ったからだった。
小さな女は彼女の声を無視してクローゼットの服を捲った。
「あー、アナスイのブラウスだあ。あたし、欲しかったんだよねえ。ねえ、これちょーだい」
「あ、あああ、あげるわよ」
「ありがとお。じゃあ、こっちのブルガリのバッグもちょーだい」
「えっ、ちょっと」
少女は催促を続けながらナイフで服を引き裂いた。引き裂き、噛みちぎり、ズタズタにしていく。一部を咀嚼する。
その様子を背の高い女はよだれを面の間から零しながら、ゲラゲラと笑った。
「ねえ、くれないのお」
ばすん。そんな音がして友美の耳は千切れて飛んだ。
小さな女が持っていた拳銃から煙が上がっていた。
「あがっがああああ、いだっいっ!」
「ああ、ごめんねえ。先に耳もらっちゃったあ。体は最後にもらおうと思ってたのにい」
「はるちゃん、もー、いいよー。殺しちゃうおうよー」
「かなちゃん、大事なことなんだよお。この人の生きてきたことが今、試されてるんだからさあ。ねえ、だってそうじゃない? 友美ちゃんだっけえ? 友美ちゃんはさあ、今から死んじゃうわけだけどお、でも自分に何があったかってえ、知りたいって思わない? 友美ちゃんの人生ってえ、この大きなお屋敷だけえ? このたくさんの服だけえ? 可愛いそのお顔お? 違うよねえ、そんなものなくなっても友美ちゃんが友美ちゃんじゃあ、なくならないでしょお? じゃあ、友美ちゃんって何をもって友美ちゃんって言うんだろお? 友美ちゃんは凄いお金持ちなんでしょお、普通の人の何倍もお、お金持ちなんだって聞いたよお。普通の人以上に何かないなんてことはないでしょお? サラリーマンの生涯賃金って二億円って言われてるんだってえ。友美ちゃんは二億円なんてはした金なんでしょお? そんなすごおくラッキーなお家に生まれたのにさあ、突き詰めていったら普通の人以下のものしかなかったあ、なんて悲しいじゃあん? 少なくともあたしはこんな人生をして、こんなものを持ってるんだぞおって誇って死にたいって普通さあ、思うじゃない? あたしもそういうの聞きたいし、なら聞いてあげたいってのが人情じゃなあい?」
「はるちゃんのお話しはーむずかしー」
「そおかなあ? 友美ちゃんも難しいって思う?」
痛みと恐怖にバタつきながら、友美は狂っていると思った。一見、まともそうなこの少女が一番狂っているのだろうと思った。
「ねえ、聞いてるのお?」
頬に当てた銃を躊躇なく、女は撃った。歯が、舌が削れて飛んだ。
もう一度少女は同じ言葉を吐いたが、返答が得られなかったので友美の指を飛ばした。
「がぎゃっ……あっぐああああ」
「これじゃあ、お話しできないなあ。大切なものも分からないよお。予定だとさあ、友美ちゃんはあ、人食いだあって誇って死ぬはずなんだけどなあ。ああ、そうだあ! 大切なもの、知ってたあ! ねえねえ、友美ちゃあん、高田くん、ちょーだい」
痛みに狂い悶える友美の瞳に色が戻った。
高田。最も信頼する、最も愛おしい男の名前だった。停電を見に行かせて帰って来なかった男の名前だった。
彼女の唇はそんなと呟いた。駄目だとも呟いた。それだけは、駄目だと。それだけはやめてくれと。汚濁したようなボロボロの口で言った。しかし、女は話しを聞かなかった。
「やめれぇ」
「ありがとお」
「ら、らぁめぃ」
「ありがとお」
「たからわあ、らぁめ!」
「うんうん、ありがとお」
「はるちゃん、もう教えてあげなよー、もう殺しちまったってさー。あ、これムービーだよー」
ゲラゲラ笑いながら女は携帯でムービーを再生した。大きな部屋に、巨大なオーブンが写っていた。高田が悲鳴を上げて、炎に焼かれていた。
「高田……」
友美は縋りついて、食い入るようにムービーを見た。泣きながら、彼の最後を見た。
映像の中で二人の少女が絶叫する男を指さして笑っていた。あるいは腹を抱えて笑っていた。
「よかったねえ、友美ちゃあん。お料理い、大好きなんでしょお? 高田くんのことお、大好きなんでしょお? 人のお肉う、大好きなんでしょお? 大好物って聞いたよお。大好きな彼が大好きなお料理になったねえ、よかったねえ」
「ほら、首ぃー。お前に見せようと思ってずっと持ってたんだぞー」
「高田くん……」
茫然自失で、友美は首を受け取った。震える手で丁寧に受け取って、口づけを試みる。
しかし、それは高田の口から飛び出した銃口によって遮られた。
「ちゅーの味は?」
「硝煙の味い」
ばすんと音がして、友美の脳髄は破壊された。




