記憶
ユエン様は、小さく『え』と呟いたまま固まっている私を心配したのか、
「やはり、失礼な事だっただろうか?」
と、申し訳なさそうな顔で聞いてきた。私はその顔が、闇の中でもハッキリと見えて、慌てて否定をする。
「い…いえっ!そんな事ございません。ただ…」
そこまで一呼吸で言って、私は言葉を切った。なんと言えばいいのか、さっぱり分からない。しかし何か言わないと、と思う。心ばかり焦って、私はつい言ってしまった。
「私…、記憶がないんです。所々覚えてはいるんですけど…。おかしいですね」
そう言って、自嘲する。言っていてもおかしかったのだ。聞いている方は、尚更だろう。しかし、笑い声は起こらなかった。訝しがって、私はユエン様を見てみる。
すると彼は。
「悪かったね…。卵さん」
と、反省するように言った。
本当にこの人は貴族なのだろうか、と思う。こんなに優しい人が、世の中にいるのだろうか。それとも、これは夢なのだろうか。
「そんな!謝らないでください!」
私は頭を下げようとしているユエン様に、慌てて返事をする。騎士が奴隷に頭を下げるなんて、誰かに見られていたら大変だ。何と言われるか分かったものではない。
「しかし」
まだ納得がいかないのか、ユエン様は困ったように呟いた。仕方ないので、私は失礼ながら話をする。
「覚えている所もあるんですよ、本当です。それより、よろしければお名前を教えてくれませんか?ユエン様の苗字は、あまり知られておりませんよね?」
そうなのだ。ユエン、ユエンと周りの人は口を揃えていうが、フルネームを言っているひとはいない。本人も、自己紹介はあまりしないらしいし。丁度いいから、教えてもらおう。リリアのいい土産にもなる。
「俺の?」
ユエン様は、ビックリしたように尋ねてきた。そんなに以外だっただろうか。
「はい。是非教えて下さい。私は、フィオティール・ラシュファーと申します。名前は、憶えていたので」
他人の名前を聞くときは、まず自分から。相手の情報を得るには、自分も同等も情報をわたす必要がある。しかし、他人にフルネームを教えたのはこれが初めてだ。
「フィオティール、か。珍しい名前だね、ここの国生まれなのかい?」
確かに、この国ではあまりない名前だ。リリアや、サーラといった三文字がオセリーなのに、私は長ったらしい。でも嫌いではなかった。
「いいえ、ここではないかと」
「そっか。俺の名前は、ユエン……」
しかし、ユエン様はそれ以上言わなかった。急に黙り込んでしまった彼を、私は心配して見つめる。ユエン様が苦笑した。
「悪いな。実は苗字が嫌いなんだ。でも知らないなんて、ね…。結構有名だから、一度は聞いてると思うんだけど」
「えっ!」
とても失礼な事をした。考えてみればそうだ。有名な貴族の騎士様の名を、しかも苗字を。みんな知らないはずはない。ただ言わなくてもわかる、そういう意味なのだろう。
「もっ…!申し訳ございません!私ったら」
慌てすぎて何をいっているのか分からなくなってきた。私の無知による事故だ。
「いや、別にいいよ。いつか、俺の口から言わせてくれ」
一人取り乱している私に、彼は優しく微笑んだ。しかし、『いつか』とは…。予想外の言葉に、私は驚く。
「ここには何週間か居る予定だ。また会えるかな?」
「はい!?」
混乱した脳に、より混乱した言葉が飛び込んでくる。
「じゃあ、そろそろ行くよ。またね」
「えっ!えっ?あっ!えっ!?」
ひらりと手を振って、風のように消えてしまった。夢のような時間だった。いや、もしかしたら夢かもしれない。私はさっきまでユエン様が座っていた、石の上を触ってみる。
すると、確かにそこは温かかった。さっきまで人が座っていた感覚がした。
「あ…」
無意識に私は呟く。外は寒いはずなのに、その風が心地よくかんじられた。