甘えてる
涼護甘過ぎだろ!
「ふいー……」
全力の自転車で走っていた涼護は、とある高層マンションの前で停まった。
「ソフィエル鈴白」。この高層マンションの名前である。
自転車置き場に愛車を置いて、入口に入る。
暗証番号を入力してエントランスに入り、涼護はエレベーターに乗って最上階の12Fのボタンを押した。
ぐーん、とエレベーターが昇っていく感覚を感じながら、携帯の画面を見る。
「……今日はどこで寝てるんだろうなあの人……」
涼護が考えているのは、自分のずぼらで変人でマイペースな上司様のことだ。
手間のかかるお人である。
などと考えているうちに、エレベーターは12Fに到着する。
ポケットからキーの束を取り出し、指でくるくる回しながら12Fに足を踏み入れる。
「いつもの部屋かね」
すたすたと迷いなく一つの部屋の扉の前に立つ。
鍵穴に鍵を差し込んで回すと、がちゃ、という鍵の開く音がした。
扉を開き、涼護が室内に踏み込むと、そこにあるのは見渡す限りの本、本、本だった。
そして、本の群れの中心にあるソファで寝こけている美女が一人。
普段は活動的なポニーテールにしている紫の髪をほどいていて、セミロングの髪が広がっていた。
美女が心地よさそうに眠っているその姿は、まるで一つの芸術であるかのような美しさを持っていたが、涼護にとっては師弟になって十年、上司部下になって四年もの付き合いだ。もうそんな美しさなんてものは感じない。
どうせ今回のこれも、明け方まで本を読んでいて、日が昇っているのに気付いて慌てて眠ったというところなのだろうし。
涼護にとっては尊敬できる師匠なのだが、それでもこの活字中毒にはほとほと参っている。
風呂や食事を忘れるのは当たり前、睡眠だって忘れてしまうのだから、まったくどうしようもない。
こんな姿を見せられては、いくら百年の恋でも冷めるというものだ。
「……詩歩さーん」
「……んー……」
涼護の師匠で上司の詩堂詩歩はぐっすりと眠っていた。
ここまで気持ち良さそうに眠られると起こすのを躊躇いそうになるが、仕事があるのでそういうわけにもいかない。
「詩歩さァァァん!!」
「うっきゃ!?」
詩歩の耳元で大声を出す。
この部屋の防音はしっかりしているので、近隣住民から苦情が来ることはない。
もっとも、このフロアには詩歩以外の住人はいないのだが。
「あー……涼護ぉ……なぁに……?」
「なぁにじゃないです。仕事ですお師匠様」
「……ああ」
合点がいったようだった。
詩歩がぐっ、と背伸びをし、その拍子に彼女の豊かな胸部が揺れた。
「シャワー浴びて眠気飛ばして来てください。その間に朝飯作るんで」
「んー、了解」
「ここで脱ごうとしないでください。さっさと行け。着替え後で持って行きますんで」
「はいよー」
ソファから立ち上がって、風呂場に向かって歩いてく詩歩。
その後ろ姿を見送って、涼護もキッチンに向かう。
○
主食は白米派である涼護だが、残念ながら今朝は米を炊いていないので、主食はパンである。
メニューは未央直伝のサンドイッチ。ハムもたっぷり使う。
今日は一日中仕事なので、腹ごしらえはしっかりしておかないといけないのだ。
「あー、気持ち良かったー」
身体から湯気を立てながら、キッチンに顔を出した詩歩。
首にかけているタオルで拭いたのだろうが、髪はまだ濡れていて水滴が床に垂れていた。
息を一つ吐きだして、涼護は詩歩からタオルを取り、彼女の頭を拭く。
「なんで俺にやらせますかね……」
「甘えてるのよ。それに涼護だって好きでしょ?」
今年で29の女性が何を。
内心ではそう思うが、それでも結局やっているのだから、自分も楽しんでいるのだろうとは思う。
髪から余分な湿気が無くなったのを見計らって、涼護はタオルから手を離した。
「じゃあ座ってください。朝飯出しますんで」
「んー」
一回り以上年下の少年に頭を拭かれた詩歩は、ラフな私服姿で食卓に座った。
サンドイッチを作り終わり、自分と詩歩の分を皿に乗せ、冷蔵庫の中から牛乳を取り出してコップに注ぐ。
二人分の皿とコップをトレイに置き、食卓の机に持っていく。
机の上に朝食を広げる。
「「いただきます」」
手を合わせて、自作のサンドイッチの一つを手に取って食べる。
マスタードが効いていて旨い。
「あ、辛! マスタードこれ!?」
「本当詩歩さん刺激系駄目ですよね」
「辛いのが駄目なの。というかなんで入れるのよ意地悪」
「ちったァ慣れてくださいよ」
「必要ないもーん」
「アンタなァ……」
ぼやきながらもサンドイッチを食べ進める。
この話題はもう散々話しているが、ずっと平行線なので今更する意味がない。
「うう……辛いー」
「あー、もう。俺のと交換しましょう。ほらマスタード入ってないですからこれ」
「ありがとー!」
嬉しそうに食べかけのサンドイッチも含めて、涼護の皿に置いていく詩歩。
代わりにひょいひょいとマスタードを使っていないサンドイッチを詩歩の皿に置いていく涼護。
詩歩に甘いにもほどがあるだろう。
「あー、美味しいわー」
「はいはい」
渡されたサンドイッチを口に運んでいく。
辛いのが旨いのに、もったいない。
○
「今何時?」
「9時半です。待ち合わせは10時。今から出れば余裕で間に合います」
「はいな」
朝食を食べ終わり、皿を水を貯めたシンクに沈めておく。
洗うのは仕事が終わって、またここに戻ってきた時にする。
「出ましょうか」
「うす」
詩歩は道具を詰めた大きな鞄を用意し、玄関で靴を履く。
涼護もそれに倣いつつ、靴ひもを改めて締め直した。
立ち上がって、鞄を持つ。
「それじゃ、行きますか」
「はい」
詩歩が自分のセミロングの紫の髪をポニーテールにして、準備は完了だ。
涼護と詩歩は、扉を開いて外に出る。
お仕事の始まりだ。
どうなんだろうなー、これ。
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