はつこい
特にはっきりと時代設定をしておりませんが、明治~昭和のレトロなイメージを想起していただければ幸いです。
気がつくと、薄暗い和室にいた。
障子は開いていて、縁側がある。
なんだか自分がどこにいるのかふっとわからなくなりそうな、夕暮れ時。
……いいえ、本当にここは、どこ?
女学校の帰りに、葵さんや志乃さんと一緒に寄り道をして……そう、甘味屋を出て……どこで別れたのだったかしら?
郵便ポストのある角で、いつものように別れたような気もするけれど、それは昨日のような気がしないでもない。
大体、ここはどなたのうちなのかしら?
誰もいないの?
どうして私ここにいるのかしら?
どうしたらいいのかわからなくて、立ったり座ったり、きょろきょろと見回してみる。
こんな様子、お母様に知られたら「落ち着きがない」って叱られてしまうかもしれないけれど、ちょっとはわかってくださるかしら。
お部屋は六畳で、押入れも床の間も何もない、次の間のよう。
そっと縁側に出てみて左右を見たけれど、ひどく真っ暗で人気もない。
庭にはすぐに生垣があって、通りも見えない。
おまけに先刻まではまだうっすらと明るかったのに、日が暮れてしまっている。
どうしよう? 和室を振り返ると、鉢植えが目に入った。
え?
なぜこんな所に?
さっきまでなかったはずだわ……
襖が開いた気配なんかしなかったのに。
薄い黄色の小振りの花だ。小さいけれど、花びらが多いので華やかな感じがする。
そっと近づいて、鉢を手に取る。
……いい匂い。
薄暗い和室の中で、その鉢植えはまるで行灯のようなふうわりとした明るさを放っていた。
と、その時。
「なんじゃ、もうみつけておるのか」
背後からかけられた言葉にひゅうと息を呑んだ。
振り返ってまた息を呑む。
すらりとした体に桔梗色の着物、銀の帯を締めたその人は、涼しげな切れ長の眼をした妖艶な美女だったのだ。
「久しぶりの客人だというのに、つまらぬのぅ」
そう言いながら女は私に近づいて、鉢植えに目を細めた。
「ほぅ、ほぅ、よいのぅ」
「な、なんですかっ、あ、あなたはっ」
どもってしまって、聞きたいことが吐き出せない。なんてもどかしい!
女は赤い唇をにぃと釣り上げて「ま、座れ」と私を座らせた。
「わらわはこの屋敷の主じゃ。そしてそなたは迷子。どうやってここに辿り着いたか覚えておらぬじゃろ?」
私はかくかくと頷く。
「ここはそなたが生きている場所とは違うでな。本来生身の人間はこの屋敷にはこられんが、時々そなたのように迷うてくるのもおるのじゃ」
「わ、私、死んじゃったの!?」
「死んでおったらこんな所で寄り道している場合ではないの」
「え?ええ?」
「ま、死んでおるならそのうち迎えがくるやもしれんぞ?」
どっちなの?
おろおろする私が面白いらしく、彼女はくすくすと笑う。
「心配せずとも良い。その鉢植えがあるからな」
わかるように説明してほしい。途方にくれる私は鉢植えを見た。
「迷子が帰るためには、ここに来た理由がわかればよいのじゃ」
「え、でも私こんな鉢植え知らないわ。うちのじゃないもの」
そう、うちにも鉢植えはいくつかあるけれど、この花は知らない。
「この部屋にいつの間にかあったのじゃろ? なら、そなたのじゃ」
そう言われて、もう一度鉢植えを見るけれど、どうしても見た覚えがない。
思い、出せないの?
ひやりとする。
だって、気がついたらここにいて、どうやって来たのかもわからない。
すがるように彼女を見やる。
「ここは、叶わなかった想いや目が覚めたら忘れる夢が吹き溜まる屋敷じゃ」
「……叶わなかった……想い……」
ずきり、とした。
「ここに迷うて来るものは、その想いが捨てきれずに、ひきずられてくるのじゃ。じゃから、その気持ちを思い出して、断ち切るか持ち帰るか覚悟すれば、元の世界に戻れるぞ」
覚悟。
ああ、なんだか思い出したくないような、胸騒ぎがする。
「……なんだかわからないけれど……忘れてしまったのだもの、その気持ちは置いていくわ! だから私を帰して! お願い!」
身を乗り出して懇願する私を哀しそうに見つめて、「本当に?」と確かめる彼女に、私はきっぱりと宣言した。
「私、帰ります!」
「では……この廊下をまっすぐ行くがよい……」
鉢植えを小脇に抱えて、彼女は私を促した。
踏み出そうとして立ち止まる。
この鉢植えは私のだと言うけれど……どうしたものか。
視線を了解したか彼女は笑った。
「これは持っては出られぬよ。そなたの想いじゃもの。置いていくと言うたのはそなたじゃ」
薄い黄色の愛らしい花。
忘れてしまった私の想い。
一体どんな?
後ろ髪は引かれるけれど、早く、帰らなければ。
ここは人間のいるところではないのですもの。
私は詫びと礼をすると、真っ暗でまっすぐな廊下を歩き出した。
どれだけ大きな屋敷なのだろう。
いけどもいけどもまっすぐな廊下。
しんと静まり返って、相変わらず人気もない。
出られない? どうして?
戻ろうか? でもかなり歩いたわ。もう少し歩けばきっと玄関に出るはずよ。まっすぐとしかいわなかったんだもの。
泣きそうになりながら、どんどん歩いて、どれだけ歩いたかわからなくなった頃、その部屋をみつけた。
今まで通り過ぎてきた部屋は全て襖がきっちり閉まっていたのに、その部屋だけはほんの少しだけ開いていた。
中から明りが漏れている。
誰かいるの!?
もう限界だった。こんなに暗くて長い廊下を一人で帰すなんて。
せめて玄関まで送るか、あの鉢植えを灯り代わりにくれてもよいではないか。
「ごめんくださいましっ」
襖を勢いよく開ける。
しかし。
そこには誰もいなかった。
小さな文机に、薄い桃色の便箋に書きかけた手紙。
見覚えが、ある?
自分がふらふらと近づこうとしているのに気づいて、足を止める。
あれを、見てはダメだ。
置いていくと決めたのだもの。
ああ、でも。
見なければ、あの暗い廊下を、出口のない廊下を、歩き続けることになるような気がする。
どうして、どうしてこんなことに?
そっと、そおっと、文机の前に座る。
涙が、こぼれた。
目の前が見えない。
でも。
知っている。これは私が書いた手紙だ。
出せずに日記帳の間に仕舞い込んだ恋文だ。
拝啓 佐久間 啓四郎 先生
早春の候、いかがお過ごしでしょうか。お風邪を召してはいらっしゃいませんか。
先生は季節の変わり目にはいつも少し具合が悪そうなので、心配です。
四月からは、いよいよ私達も最上級生になるのですね。
ついこの間、入学したばかりに思いますのに、月日のたつのはあっという間です。
一学年の夏に河野先生が入院されて、佐久間先生が代わりに来られてから、いろいろなことがありましたね。
三位入賞を果たした体育祭、父兄に好評だった文化祭のチャリティーバザー、学年順位のあがった年末考査(これには私も貢献したと思っておりマス)
厳かなお寺を拝観した健足会に林間学校。催し物ばかりではなく、日々の小さなことがとても楽しく、色鮮やかな記憶となっております。
それもこれも、すべては先生のおかげです。先生がいてくだすったから。
気の強い級長さんを困ったように叱る先生。
古典文学を朗々と読み上げる先生。
雑談してしまったことを恥ずかしそうにする先生。
時々寝癖をつけている先生。
さりげなく、気を使ってくれる先生。
些細なことを褒めてくれる先生。
私は、珠樹は、先生をお慕いしております。先生を、身が焦がれるほど、一人の男性として。
どうか、どうか私の気持ちを汲み取って下さいませんか。
無理は申しません。けれど、私の気持ちはもうこの身の内から溢れんばかりなのです。
私のことを、少しでもいい、一人の女性として、思っては下さいませんか。
良いお返事をお待ちしております。
悪いお返事のときは、どうか、その後も珠樹を避けたりしないで下さい。お願いです。
かしこ
書いては直し、書いては直し、何枚も反古紙を作った。
出来たと思ったけどやっぱり渡すなんて出来なくて、日記帳にはさんだ。
そしてあの日知ってしまったのだ。
先生は、三月いっぱいで退職されて、郷里に帰って結婚されるのだと。
だから、だから何もかも忘れられればいいと思ったのだ。
はらはらととめどなく涙が流れて、止まりそうにない。
「これを持ってお帰り」
涼やかな声がした。
振り向くと屋敷の女主が鉢植えを差し出している。
私はいやいやと首を振る。
こんな苦しい想い、持ってなんて帰れない……。
「今は苦しくとも、そなたが咲かせた花はこんなにも美しいぞ?
大きくはならずとも、愛でておやり」
彼女は私の手をとって、鉢植えを私の膝に置いた。
小さくて黄色い、瑞々しくて少しいい匂いのする花。
私の、はつこいの花。
ついに私は首を振るのをやめて、こくんとうなづいた。
「その花が散ったなら、それが次の花が咲く合図じゃ。
大きく美しく咲かせるがよい!」
彼女の声が耳朶を打った途端、目の前が暗転した。
気がつくと、自分の部屋だった。
カチコチと振り子時計の音がしている。
すっかり暗い。
机の上には、しおれかけたあの花の鉢植えが置いてある。
夢……ではないのかしら?
彼女の言葉を信じるならば、この花が散らないと次の恋はやってこない。
しかしむざむざ枯れさせるのは違う気がした。
終業式の日に言おう。
お慕いしておりましたと。幸せな学生生活でしたと。
そして、……どうか先生もお幸せにと。
私はえい、と立ち上がり如雨露を探しに部屋を出た。