浮気者の婚約者は放流しましたが、幼馴染の騎士は釣り上げますわ
王宮舞踏会の夜、私は庭園の茂みに身を沈めていた。
伯爵令嬢がすることとして正しいか間違っているかで言えば、後者である。
夜会の最中に会場を抜け出し、植え込みの陰から男女の逢瀬を観察しているのだから、淑女教育を担当した家庭教師が見たら、額を押さえることでしょうね。
けれど、その男女の片方は、私の婚約者ジェイク・ゲビー。
もう片方は、私の親友だと名乗っていたアナ・ドクィ。
となれば、話は別ではなくって?
月は高く、庭園の白石を照らすほど明るい。
表情の細かな変化までは読めないけれど、二人の姿勢や手の位置なら嫌になるほど分かる。通路に近い灯も背後から二人の形を浮かせていた。
アナの細い腕はジェイクの首に絡み、ジェイクの手は彼女の腰を抱いている。しかも、夜の庭にはあまり似つかわしくない、湿った口づけの音まで聞こえてくる。耳って、時として目より余計な仕事をするのね。
「婚約白紙ね」
私はぽつりと呟いた。
彼との婚約は十四歳のときに成った。母同士が仲良しで、家格も釣り合い、年頃もちょうどいい。そういう理由で結ばれた縁で、私にとってジェイクは恋焦がれる相手というより、いずれ家族になる予定の人だった。
だから、目の前の光景を見て悲劇のヒロインのごとく泣くかと言われると、泣かない。
だって悲しくないんだもの。
けれどねえ、気持ち悪いとは思ってるの。ええ、そこは全力で主張したいわ。
気持ち悪いついでに親友の座も本日をもって空けるべきよね、とかなり冷静に考えている。
私ったら薄情なのかしら?
いいえ、そんなことないわ。気持ち悪いものは気持ち悪いもの。
……ああ、今、無性に釣りに行きたい気分。こういうときは、湖畔で糸を垂らして、浮きだけを眺めていたいわ。
「ロシェル、どうした? ……泣いてんのか?」
妄想で釣りをしていたら、背後から声がして肩が跳ねた。
振り向けば、イーサンが植え込みの外からこちらを見下ろしていた。
二十歳の王宮騎士で、幼馴染で、ホイットモア伯爵家の長男で、口の悪さだけなら街角の悪童と競える面構えの男である。けれど中身は気のいい男だ。
悪人は嫌いで、弱い者いじめも嫌い。なのに厨房から焼き菓子をつまむ程度の不正なら笑って実行する。
分類としては、正義感のある不良ね。この見た目で猫ちゃんが好きなのよ。
「いいえ、泣いてないわ」
イーサンは身をかがめ、私の顔を覗き込んだ。
「あ、ほんとだ。泣いてねえわ」
軽いわねえ。心配したのか茶化したのか、今ので判定が難しくなったじゃない。
「どうしてこんなところにいるの? 警備のお仕事はしなくていいの?」
「今日は非番。姉貴と義兄さんに挨拶にきただけ。もう帰ろうかと思ったらロシェルが会場を出てくのを見かけたんだよ。……つうか、あれ、お前の婚約者だよな」
まあ、『あれ』だなんて。
相変わらず、イーサンはジェイク様を嫌っているのね。
「相手は──ドクィ子爵令嬢か? お前ら、友達だったよな?」
『元』が付く予定の親友が、『元』が付く予定の婚約者様にしがみついているのを横目に、私は淡々と返す。
「ええ、そうよ。元親友のアナよ。でもね、私、そこまで傷ついてはいないのよ。ジェイク様は婚約者ではあるけれど、恋い慕っていたわけではないし、アナだって『わたしたち親友よね』と会う度に言われて、そうかしら? そうなの? そういうものなの? と首を傾げているうちに、名ばかりの親友になっていただけだもの。問題は、今後の説明と、両家の面子と、お母様が卒倒なさらないかどうかね」
「……めっちゃ喋るじゃん。つうか、婚約は破棄するんだろ? するよな? しろよ」
な、なんなの、この圧は……。
私だって破棄したいのは山々よ。でもね、破棄と白紙では意味が違うの。
破棄となれば両方の家に傷がつくし、女である私は傷物扱いされかねない。
「白紙じゃないかしら?」
私は再び茂みの隙間から二人を見た。ジェイクとアナは、こちらの会話どころか周囲に人がいる可能性まで頭から抜けているらしい。
互いの息遣いと衣擦れに気を取られて、植え込みの陰で人が動いたくらいでは気づきそうにない。
いわゆる、二人の世界というものかしら。
抱き合う影がさらに近づき、また、口づけらしき音がした。
人は本当にああいう音を立てるのね。
あらやだ、アナったらたいそうな体勢だわ。ジェイク様もなんだか奇天烈ね。絡まったリボンを力任せに解こうとしているみたい。
従姉が目を輝かせて語っていた、主人公と恋人様が寝室に入り、次の行では朝になっているあの部分の謎がこういうことなの?
隣でイーサンがひどく嫌そうに息を吐いているわ。こら、「おえっ」なんて言わないの。
「馬鹿、あんなもん見るな」
イーサンの手が、私の後頭部をぐいと押さえて視界を塞ぐ。
淑女の扱いとしては落第ではなくて? 髪が崩れちゃうわ。私のことなんだと思ってるのかしら。
「いいじゃないのよぅ。なかなか見られるものではないのよ?」
「見なくていいもんだ、普通は見ねえんだよ」
「だって婚約白紙の証拠として、どの程度まで確認すべきか判断が──」
「必要ねえ。俺が見て、ロシェルも見た」
そう言うなり、イーサンは私の両脇に手を入れた。
えっ、と思うより早く、体が持ち上がる。
待って。これは淑女の移動方法じゃないわ。
「イーサン、下ろして。私はまだ観察しないと……」
「馬鹿か、帰るぞ」
「舞踏会の途中だわ」
「こういう非常時は帰っていいんだっつうの」
イーサンの腕に抱えられながら、まずいわ、意外と居心地が悪くない、などと思ってしまった。
ジェイク様との婚約が決まったときに失恋して、未練は断ち切ったつもりだったのに。
私ったら意外としつこいのかしら?
ドナドナよろしく運ばれながら、う~んと唸る。
「ねえ、下ろしてよ。歩かせて」
「だめだ、また見る気だろ」
背後からはまだ、二人がこちらに気づいていないらしい音が続いている。
「……否定できないわねえ」
「できねえのかよ」
だって、見たいのだもの。
私は伯爵令嬢として重大な欠点を抱えているらしい。
……好奇心って品位と相性が悪いのね。
とはいえ今夜のところは、イーサンの腕の中で強制退場を受け入れることにした。
王宮を知り尽くしているだけあって、イーサンは誰にも遭遇せずに私を馬車まで猫ちゃんみたいに持って運んだ。にゃー!
馬車寄せでようやく地面に下ろされた私は、まず髪の乱れを直した。
次に、庭園へ戻るべきかを考えた。まだ見たい気持ちはある。とてもある。
けれど、あれ以上を確認したところで、私の気分がさらに悪くなるだけではなくて?
そんなわけで帰宅した。
帰宅後、お父様へ事情を話すと、話は思ったより早く進んだ。
イーサンが同じものを見ていたことも添えると、お父様は顔をしかめ、すぐにゲビー家へ使いを出した。
翌日にはゲビー家へ確認が入り、先方も否定しなかったので白紙という形で話がまとまった。
けれど、お母様が寝込んだので、私はしばらく屋敷にこもることになった。
お母様の看病、見舞い客への対応、外出を控えるための言い訳、手紙の返信……。
婚約が白紙になるって大変なのね、どうしてこんなにやることが多いの?
その間に、アナは社交界でずいぶん働き者になっていた。
私とゲビー家が詳しい事情を伏せているのを利用して、私が嫉妬して二人の仲を邪魔したとか、ジェイク様は家同士の婚約に縛られて本心を言えなかったとか、アナは私に謝ろうとしたのに冷たく拒まれたとか。
でもそのわりに、ゲビー家からアナとの婚約話が進んでいる様子はなかった。
だからこそ、アナはますます私を悪者にしたかったのかもしれない。
話だけ聞けば悲恋ものとして成立しそうでは……ん? 成立する? しないわね。
どこをどう脚色すれば私が悪役になるの? 分からないわ。
常識のある令嬢たちは信じなかったけれど、信じた方々もいた。
アナの涙に弱い令息。以前から私を気に入らない令嬢。イーサンに好意を寄せていて、私の幼馴染という立場が気に食わないらしい方。我がスウィーニー伯爵家と対立する家の方々。
見事に、私を悪く見たい方ばかりね。
ジェイク様まで、アナの話に乗った。
ゲビー家としては白紙を受け入れたくせに、当の本人は親の目が届かない集まりで、私が嫉妬して騒ぎ立てたのだと吹聴しているらしいの。
その後にバレて、ご両親にかなり叱られ、夜会への出席も控えるよう命じられていたそうだけれど、招かれた家の小さな茶会までは止めきれなかったのだとか。
そこで反省するならまだしも、私を嫉妬深い女にして逃げようとするあたり、ジェイク様への評価は下がりきったわ。
◇
久しぶりに出席したお茶会は、招待状に書かれていたほど和やかな集まりではなかった。
招待状の差出人は、気の弱いことで知られる子爵令嬢だった。
彼女とは深い付き合いこそないけれど、誰かを追い詰めるような茶会を開く人ではない。
参加者の名は詳しくは書かれていなかったけれど、せいぜい婚約白紙後の様子を探られるくらいだろうと思っていた。
けれど、案内された席に近づいた時点で、その見込みは甘かったと知った。
差出人の子爵令嬢は、部屋の隅で不安そうに茶器を並べていた。私と目が合うなり、申し訳なさそうに視線を伏せる。
ああ……断れなかったのね。
長椅子の中央にアナ、その左右に彼女へ同情的な令嬢たち。私の席は、その真正面。逃げ道のない配置ね。まるで被告席じゃないの。
アナは白いレースのハンカチを握りしめ、伏し目がちに座っていた。
私を気に食わない方々も、きちんと揃っている。
私はにこりと笑って席についた。
笑いましょう。伯爵令嬢の笑顔は、社交界で使える数少ない防具なのだもの。
「ロシェル様、お加減はいかが? 婚約が白紙になって、さぞお辛いでしょう? でもね、アナ様はもっとお辛いのですよ」
最初に口を開いた令嬢は、アナの手を握っていた。
「アナ様は何度も謝りたいとおっしゃっていたのよ。親友でしたのに、会ってもいただけないなんて」
親友ねえ。
「真実の愛を責めるのは、あまりにも酷ではなくて?」
真実の愛ねえ。
「ロシェル様はお強いのね。私なら、とても平然とはしていられませんわ」
「本当にね。アナ様なんて、あれから何度も泣いていらしたのよ」
「でも、ロシェル様はお顔色もお変わりにならないのですもの。もしかして、最初からジェイク様のことを大切には思っていらっしゃらなかったのかしら」
真実の愛という言葉を使えば、婚約者持ちの殿方と庭園で何をしても許されるの?
親友と名乗れば、相手の婚約者に手を出しても、悲劇の花嫁面ができるの?
そもそも、謝りたい相手を貶める噂を撒くなんて、どういうつもり?
それに、アナの目元は乾いているじゃないの。顔色が何なの? そんなものお化粧でなんとかなるわよ。
「……」
「ロシェル様、何かおっしゃったらどうですの?」
「アナ様は勇気を出してここにいらしたのですよ」
「親友にここまでさせて、黙っているなんて」
黙っていれば卑怯で、言い返せば嫉妬深く、笑えば冷淡で、泣けば被害者ぶってる──ってとこかしら。
四方ふさがりとはこのことね。
なあんて冷静に分析している私だけれど、お腹の底では業火が燃えているの。それはもうぐつぐつと。煮え立つくらいには怒っているわ。
でも、怒鳴れば向こうの思うつぼだと分かっている。
私はにっこり笑って、紅茶を置いた。
長居をすれば、冤罪が増えそうだもの。
そんなのごめんよ。
全然、堪えていませんって顔で退席してやるんだから。
私は主催者の子爵令嬢へ会釈し、返事を待たずに席を立った。
背中に視線が刺さったけれど、振り返ってあげる義理はない。ふんっ!!
◇
そんな頃、イーサンが湖へ釣りに誘ってきた。
令嬢を誘う行き先としてはかなり独特だけれど、イーサンらしいといえばこれ以上ない選択である。
まあ、私も釣りが大好きなのだけれどね。
でも、イーサンったら釣りが下手なの。
騎士のくせに気配を殺せなくてお魚さんたちが寄ってこないのね、きっと。
もちろん、侍女と従者は目の届く木陰に控えている。婚約白紙直後に若い騎士と完全な二人きりになるほどお馬鹿さんではないのよ。
湖畔の草地に腰を下ろすと、イーサンは私の釣り針に餌を付けてくれた。
私は虫に寛大な令嬢ではないのでありがたい。
針の先でくねるあの生命力を見ても平然としていられるほど、私の胆力は万能じゃないの。
「で? 何があったわけ?」
「何かあった前提? 別に何もないったら」
私は竿先を見つめたまま答えた。
湖面に波はほとんどなく、浮きも動いていない。
「顔に出てんだよ、『ムカつく』ってな」
「そんなこと書いてないわ」
「書いてある。眉間あたりにでかでかと」
「まあ失礼ね、淑女の額を掲示板扱いしないでくださる?」
軽口を返したのに、イーサンは笑わなかった。
じっとこっちを見てる。
……そういう顔をされると困るのよね。
平気なふりができなくなっちゃう。
「お茶会で洗礼を受けたの。アナと、アナの味方の皆様のね。招待状には親睦って書いてあったけれど、実態は囲い込みだったわ。お茶会というよりも審問会よ」
……話しているうちに、あの席で飲み込んだ言葉が次々と浮かんでくる。ぐぬぅ。
「言い返さなかったのか?」
「だって、言い返したら思うつぼだもの!」
思ったより大きな声が出た。
湖面の近くにいた小鳥が飛び立ち、私は反射的に口を押さえた。淑女としては減点。けれど今の声には、今日まで飲み込んできたものが混じっていた。
イーサンはしばらく黙っていた。
彼が余計なことを言わないのは珍しい。いつもなら、腹減ったのか、とか、魚に八つ当たりすんなよ、とか、腹の立つ方向へ話を逸らすくせに。
「俺が証言するか?」
その言い方があまりに軽くて、私は竿を構え直した。
庭園で見たことを、私一人だけの言い分にしないでくれる人がいる。その事実に、意地っ張りな肩から力が抜ける。
けれど、ここで彼に全部背負わせるわけにはいかない。
婚約が白紙になったばかりの私に、イーサンが出しゃばれば、今度はそちらを面白おかしく語られるに決まっているもの。
……甘えたら負けな気もするし。
何に負けるのかは知らないけれど、強いて言うなら私の意地ね。
「結構よ!」
つん、と顎を上げて言うと、イーサンの顔がほんの一瞬だけ曇った……気がした。気のせい?
「……俺がお前と一緒にいたことは言わねえし」
「そんな心配してないわ。そもそもイーサンの証言一つでひっくり返るわけないでしょう。しかも女の闘いに男が出るなんてあり得ないもの」
「一つとは限らねえだろ」
「? どういう意味?」
「さあな」
そこで竿がぐっと引かれた。私は反射で立ち上がる。
水の下から、何かが容赦なく竿を持っていこうとしていた。
「何はともあれ、私が自分で何とかするわ!」
私は必死で竿を支えた。腕が持っていかれそうになり、足元の草を踏みしめる。
イーサンが横から手を貸してくれて、背中のすぐ近くで「引け、今だ」と言った。近い……けれど、今はそれどころではない。
恋より魚。
なんて色気のない優先順位なのかしら?
どうにか引き上げた獲物は、草の上で元気よく跳ねた。
かなり大きい。
怒りの行き先のお魚さんには何の責任もないけれど、釣れた以上は夕食になっていただくしかない。
あなたの犠牲は私の決意の象徴として語り継がれるわ。
「お前って格好良いよな」
イーサンが笑った。
好きな人に褒められたのだから、そこは素直に喜ぶべきだと思う。けれど、『格好良い』?
伯爵令嬢として、好きな人からもらう言葉が『格好良い』?
可憐でも可愛いでもなく、釣り竿片手に大魚を仕留めた女への称賛である。
ああ、私の恋はどこへ向かっているのかしら。
湖のお魚さんに聞いても答えてはくれないでしょうね。
……でも、元気になった。
次は冷静に立ち回ってみせるわ!
私はそう決めた。
どうせなら、釣り針につける餌みたいに相手が食いつく形へ変えてやるんだから!
◇
王宮舞踏会の夜から二ヶ月ほど経った頃、教会のバザーで次の機会がやってきた。
お母様の体調も戻り、慈善活動なら出てもよいでしょうということで、私は寄付品の確認と売り場の手伝いに顔を出した。
刺繍小物、焼き菓子、古書、子ども用の衣類。教会のバザーは貴族の社交と庶民の生活が同じ敷地に並ぶ。
楽しいかと聞かれたら、今回に限っては警戒心のほうが勝った。なんせ、アナも参加しているから。いつもは楽しいのよ?
同じ場所にいないようにしましょうと思ったのに、アナは私の前にやたらと現れる。
しかも彼女は、ときどき教会の門のほうへ視線を向けていた。
最初は偶然かしらと思った。
けれど、二度目に私の近くで足を止め、三度目に私の袖へ指をかけ損ね、四度目に寄付品の箱の前でよろめいたところで、私は理解した。
この子、私の来る場所を狙って現れているのではなくって?
と、思っていたら、大当たり──
私が階段へ差しかかった瞬間、アナが肩の触れそうな距離まで寄ってきた。
「きゃあ!」
アナは二段ほどの小さな階段で足をもつれさせ、派手に倒れた。周囲の視線が集まる。
なるほど、私に突き飛ばされたことにしたいのね?
だから私の目の前で転んだのね?
ははあん?
私は駆け寄った。
怒ってはだめよ、ここは心配。
従姉仕込みの偏った知識を、社交界向けの善意で包んで差し出すのよ!
一に心配、二に心配。三、四が無くて五に心配。心配三昧!
「大丈夫!? アナ、無理をしてはだめよ!! あなた、ジェイク様との真実の愛をあれほど大切にしていらしたでしょう? もし、お腹に愛の結晶が宿っていたらどうするの!!」
声はよく通った。
教会の庭にいた人々の動きが止まり、アナまで痛がるのを忘れたように固まる。
素敵な反応ね。動けないほど驚いたなら、転倒の痛みはどこへ行ったのかしら。
「早く救護院へ行きましょう!」
「な、何を言っているの、ロシェル」
私はアナの手を取り、周囲にも聞こえる声で言った。
「無理をしないで。私が真実の愛を邪魔してごめんなさい! でも今は謝罪より救護が先だわ。万が一のことがあったら大変ですもの!」
「お腹に、愛の結晶?」
「それってつまり……?」
「アナ様が? ……まさか……」
近くの令嬢たちが声をひそめ合う。
「ち、違うわ!」
アナは私の手を振りほどこうとする。
「あら、違うの? ジェイク様とアナは、あの夜……あ、ごめんなさい。これは私の口から申し上げることではありませんでしたわね」
私は言葉をそこで切った。
さあ、続きを作るのは周囲の方々だ。人は言い切られなかった部分ほど、勝手に考える。
「二人の逢瀬現場なら見たぜ」
人垣の外から声がした。
イーサンだ。
あなた、偶然を装うならもう少しドヤ感を消しなさいよね。
「二ヶ月前の王宮舞踏会の夜、庭でゲビーとドクィ令嬢が人目を避けて一緒にいた。見間違いなんかじゃねえ。俺は目がいいんだ」
イーサンの言葉でこの場の流れがひっくり返るほど、世の中は単純ではない。
なあんて思っていたのだけれど──
「……実は、わたしも見ました」
小さな声が上がった。
振り向くと、若い令嬢が青い顔で立っていた。
たしか、王宮舞踏会の夜にも会場で見かけた方だ。彼女は人垣の外に半分隠れるように立っていて、口を開いたことを自分でも後悔しているように見えた。
ええ、分かるわ。こういう証言は勇気がいる。特に、社交界では正しさより面倒くささのほうが勝つ場面が多いのだもの。
「庭園の、人目につきにくい場所で……通路側から見たのです。殿方のほうはジェイク様に見えました。でも、お相手の令嬢までは分からなくて……」
周囲の人々が息を呑む気配が伝わってきた。
「僕も、見ました」
今度は、若い令息が口を開いた。
彼は帽子を胸の前に抱え、私とアナを交互に見てから、気まずそうに視線を下げた。
「あの夜、庭園のほうから声がしたので見に行きました。ですが、僕が見たのは会場へ戻るジェイク様だけです。襟元が乱れていたので妙だとは思いましたが、まさか相手がドクィ令嬢だったとは……」
その声に押されたように、別の令嬢がそろそろと手を上げた。
その令嬢が見たのは、庭園から戻ってきたアナだった。口紅は落ち、赤い色が頬まで擦れたように伸びていたという。
──ジェイク様を見た者、アナを見た者、庭園から声を聞いた者の話がつながるにつれて、アナが作った『悪役ロシェルの物語』が書き換えられていく。
アナったら顔が真っ青だわ。さすがにもう、転んで痛いどころではないでしょうね。
そこへ、教会の門のほうからジェイク様が現れた。
なんでいるの? アナの様子を見に来ていたのかしら? 騒ぎを聞きつけたのか、人垣を押し分けて入ってきた。
ジェイク様はアナを見て、私を見て、周囲を見渡した。
顔色が変わる。赤くなり、青くなり、目だけが逃げ道を探すようにウロウロ動いている。
「俺は……俺は、こいつに誘われたんだ!」
ジェイク様の声が響いた。アナの目が大きく見開かれた。
真実の愛を語っていたはずの殿方が、ここで相手を差し出すのね。
身持ちを疑われるアナ。誠実さを疑われるジェイク様。
……ああ! 二人そろって信用を失うなんて、実にお似合いだわ!
私はアナの手をあらためて取った。
「ひとまず診ていただきましょう? 心配だわ」
アナは何も言わなかった。
私はアナの手を引いた。
ここまで来たら救護院まで付き添いますとも。親切な伯爵令嬢ですから。
ふふん、これにて一件落着よ。さすが私ね。
……と言って高笑いしたいところだけど、後で聞けば、イーサンはあの夜に庭園近くにいた方々を探していたそうなの。
仲間づてに聞き込み、何か見た者、聞いた者がいないか当たっていたのだとか。
その何人かが今日のバザーに来ることまで知り、必要になったら覚えていることだけ話してほしいと、前もって頭を下げていたらしい。
女の闘いに男が出るなんてあり得ない、と思っていたのに……悔しいけれど、あの場では助かったわ。
◇
その後、ジェイク様は、遠縁にあたる退役騎士様のもとへ預けられることになった。
表向きは心身を鍛え直すための静養という扱いだけれど、実態としては、社交界からしばらく引き離される処分でしょうね。
根性を鍛え直せ、というご親族の意向らしい。
しかも、その退役騎士様という方が、たいそう厳格な人物なのだそうだ。若い頃は騎士団で鬼教官と呼ばれ、新人騎士を泣かせることで有名だったとか。
アナはかなり厳しめの修道院へ行くことになった。
こちらも表向きは心を落ち着け、己を見つめ直すためという話だけれど、ドクィ家としては、これ以上の醜聞を社交界で育てたくなかったのでしょうね。
ちなみに、アナのお腹に『愛の結晶』は宿っていなかったそうよ。これは幸いだったと思うわ。
こんなゴシップの中で生まれる子どもは可哀想だものね。
◇
そういうわけで、私は今日も釣りに来ている。侍女と従者は、今回も少し離れた場所に控えていた。
水面を眺め、浮きの動きを待ち、隣で餌をつけてくれる幼馴染を盗み見る。
淑女の気晴らしとして正しいかどうかはともかく、私にはかなり合っている。
「今日はボートでも良かったんだけどな」
イーサンは湖を見ながら言う。
声だけ聞けば平然としているけれど、視線は水面の中央へ向かいかけては岸辺の石へ逃げる。
あらまあ、なんて分かりやすいの。
「イーサンったら。あなた、ボートが苦手じゃないの。無理することないわ」
「……別に、無理とかじゃねえし」
そう言うくせに、彼の声はもしょもしょと小さくなっていく。
イーサンは、小さなボートで湖の真ん中にいるのが不安なのよね。
彼はそれを恥ずべきことだと思っているらしいけれど、私は可愛いと思っている。
もう重症よね、と思ってしまうのはこういうときよ。
恋愛小説愛好家の従姉からは、「殿方を可愛いと思ったら底なし沼に嵌ったと思いなさい」って言われたことがあるのだけれど、言われたときは意味が分からなかったの。
でも、今なら分かっちゃうの。やあねえ。
「ねえ、イーサン、底なし沼って本当に底がないのかしら?」
「……? また訳分からんこと言ってんな」
「あなたも沼に嵌ればいいのに」
「はあ?」
「! え!? あっ、糸が引いてるわ! ……きゃあ! 重いわ! 助けて、イーサン!」
叫んだ途端、イーサンが背後から腕を伸ばし、私ごと釣り竿を支えた。
背中に彼の体温が近い。肩の横に腕があり、耳元で息が聞こえる。これは、恋愛小説で言うところの背後から抱き締める構図ではなくって?
「こらっ、ちゃんと持て!」
あ~はいはい、ロマンチックのかけらもないわね。
ふんっ、いいわよ、真剣に釣ってやるわ!
えいやっ! と、ほとんどイーサンの力で釣り上げた魚は、この前よりも立派だった。
というか、今までで一番の大物だ。
「きゃ~! やったわ! ふふ! 私ったら釣りの天才ね!」
「そうかもな。ったく、俺はいつ、お前よりでかい獲物が釣れるんだか」
イーサンは笑っているのに、どこか拗ねていた。
「? 欲しいならあげるわ」
「いらねえよ、自分で釣った魚じゃねえと認められない」
「『認められない』って、誰に?」
「……忘れたのか?」
「何を?」
「くそっ! んなこったろうと思った!」
まったく。すぐに「くそ」って言うのやめなさい。
「ええ? 何よ、言いなさいよぅ」
「……」
「言いなさいったら」
「……お前より大物釣ったら、俺と結婚するって言ったろ! 俺が十二、お前が十のときに!」
「え?」
──まったく覚えてない。
けれど、イーサンの目を見て、笑って流す話ではないのだと察した。
十二歳のイーサンは、十歳の私が投げた小石みたいな約束を、八年も大事に握っていたらしい。
彼は約束(?)の翌年、騎士学校へ入った。寄宿制の厳しい学校で長い休暇にも訓練が入り、王都へ戻ることはほとんどなかった。
その間に、私とジェイク様の婚約が決まっちゃった、と。
イーサンが卒業して戻ってきたころには、私はもうジェイク様の婚約者だったのだ。
なあんだ。間に合わなかったのね、この人。
だから、婚約破棄しろって圧たっぷりに言ったり、婚約白紙後に頻繁に釣りに誘ってきたのね?
そういえば、帰ってきたとき元気なかったかも?
「……馬鹿ねえ」
「どうせ馬鹿だよ」
私は釣り上げた魚を見た。大きくてたいへん立派だ。
けれど、ここで重要なのは魚の大きさではない。
八年前の約束を覚えていて、私が別の男と婚約している間も黙っていて、今日になってようやく拗ねた幼馴染を、このまま魚勝負に縛っておくべきかどうかである。
答えは、否。だって、忘れてたし。
「勝負はもういいわ。私、あなたが八年も覚えていたことのほうを採用します」
「……は?」
「だから、早く私に告白しなさい」
イーサンは目を見開いたあと、釣り上げた魚と私を交互に見た。
「ここでかよ」
んもう、何よ。『ここ』で、いいじゃない。
この男、見た目に似合わずロマンチックなの?
私は満天の星空の下で跪かれるとか、薔薇の庭園で指輪箱をパカッと開かれるとか、そういう大掛かりなものを望んでいるわけではない。
「ここでよ」
「いや、待て。……ん? あれ? ということは、お前、俺のこと──」
だめだめ! あなたの告白が先よ!
ロマンチックさはいらないけれど、愛の告白は殿方から言ってほしいわ。私だって、それくらいの乙女心は持っていてよ?
「今言わないなら、どんな手を使ってもお父様に会わせないわ!」
私の気持ちに気づいたらしく、イーサンの耳まで赤くなる。
まあ、私も人のことは言えないのだけどね。耳が熱いわ。
「好きだ、結婚してくれ!」
被せ気味に私も叫ぶ。
「喜んで! 私も大好きよ!」
勢い余ってイーサンに抱き着いた、その足元で、草の上に転がっていたお魚さんが最後の力を振り絞った。
ぼちゃん!
釣り上げたお魚さんは、私が彼に抱き着いた隙に湖の中へ帰っていく。
「あ、逃げた」
「いいの! イーサンが釣れたんだもの」
「魚扱いすんな」
その言い方が可愛くて、背中に回した腕の力を強めた。
◇◇◇
翌日、イーサンは本当に我が家へ来て、お父様に私との結婚を願い出た。
お父様は何度か咳払いをなさったあと、最後には許してくださった。
茶番よねえ。婚約が白紙になった私の次のお相手に頭を悩ませていたくせに、イーサンだと分かった途端、渋々許す父親らしく重々しく振る舞うんだから。
あれは演技よ、白々しいったらないわ。
こうして私は、口の悪い幼馴染の騎士と婚約した。
王宮舞踏会の夜に茂みへ身を沈めていた私が、大好きな人に求婚される未来を迎えるなんて……。
人生って何を釣り上げるか分からないものね。
【完】
('ω' っ )3




