大人になったのび
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プロローグ ― 十一月の夕暮れ
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東京の西端、かつて空き地だった場所に、今は小綺麗な戸建て住宅が並んでいる。
野火 太一がその街に降り立ったのは、十一月の末、木枯らしが銀杏の枯れ葉を舗道に叩きつける夕暮れのことだった。三十五歳。東京大学大学院理学系研究科・物理学専攻の博士。専門は流体力学と量子情報理論。名刺にはそう刷られている。
子どもの頃、この街で何度も泣いた。テストで零点をとって泣いた。ジャイガンに殴られて泣いた。須根 夫介に自慢されて泣いた。そして——ニャえもんに助けてもらって、また泣いた。
あの青いロボットと最後に会ったのは、いつだっただろう。
中学に入ったころから、ニャえもんは少しずつ姿を見せなくなった。のび太一が泣かなくなったからかもしれない。あるいは、泣く必要がなくなったからかもしれない。
ポケットから振動するスマートフォンを取り出す。画面には一行だけ、短いメッセージが届いていた。
「のび太一くん。ひさしぶり。押し入れにいるよ。——ニャえもん」
のび太一は立ち止まり、しばらくその文字を見つめた。それからゆっくりと、幼い頃から何千回も歩いた路地へと足を向けた。
実家の玄関を開けると、誰もいなかった。両親はすでに地方に移り住んでいる。借りたままにしている家の鍵を、のび太一は胸ポケットに常に入れていた。理由は自分でもわからなかった。ただ、そうしていた。
廊下を進み、階段を上り、自分の部屋のドアを開ける。
押し入れの引き戸は、すこし開いていた。
隙間から、やわらかい青い光が漏れていた。
「……ニャえもん」
引き戸を引くと、そこにいた。丸い顔。丸い目。首の赤いリボンと鈴。かつてと何一つ変わらない、あの青いネコ型ロボット。
ニャえもんはきらきらした目で、のび太一を見上げた。
「のび太一くん! 大きくなったねえ」
のび太一は少し笑った。
「お前は全然変わってないな」
「ロボットだからね。でも……来てくれると思ってたよ」
二人はしばらく黙って向かい合った。外から、木枯らしの音が聞こえた。
やがてニャえもんが、例の得意げな顔をした。のび太一はその表情を見た瞬間に気づいた——ああ、始まるな、と。
「せっかく久しぶりに会ったんだから、道具を見せてあげるよ!」
のび太一はひとつ、静かに息を吸った。
それが、すべての始まりだった。
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第一章 どこでもドア
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ニャえもんが最初に取り出したのは、定番中の定番だった。
胸のポケットに手をつっこみ、ぐいと引っ張り出したそれは、のび太一が子どもの頃に何度もくぐり抜けた、あのピンク色のドアだ。どこからどう見ても廊下の幅より大きい。四次元ポケットというのは、つくづく不思議なものだとのび太一は思った——思ったが、今日はそこには突っ込まないことにした。
「じゃじゃーん! 『どこでもドア』!! 行きたい場所を言うだけで瞬時にどこへでも行けるよ! ハワイでも、パリでも、エベレストでも!」
ニャえもんはドアを廊下に立て、ノブをくるくると回してみせた。嬉しそうだ。子どもの頃から変わらない、あの得意げな顔。
のび太一は腕を組み、ドアを眺めた。
「……一つ聞いていいか」
「なに?」
のび太一はゆっくりと話し始めた。
「エベレスト山頂の気圧は、約三一二ヘクトパスカルだ。東京は約一〇一三ヘクトパスカル。気圧差はおよそ七〇一ヘクトパスカル、パスカルに直すと約四万パスカルになる」
「う、うん……」
「空気は高圧側から低圧側へ流れる。それは知ってるな。このドアを東京側で開けた瞬間、その気圧差が解放される。ベルヌーイの定理で計算すると、ドア付近を流れる風速はv=√(2ΔP/ρ)。ρは空気の密度、約一・二九キログラム毎立方メートル。解くと——」
のび太一はポケットから小さなメモ帳を取り出し、数式を走り書きした。
「時速にして約九百四十キロ。音速の約七十六パーセントだ」
「……き、きゅうひゃく……」
「ドアを開けた瞬間、超音速に近い爆風が室内を突き抜ける。開口部に立っている人間は吹き飛ぶ。壁が崩れる可能性がある。砂漠——たとえば夏のサハラ、気温五十度——と南極、マイナス六十度の間でドアを開けたとしよう。今度は温度差一一〇度の熱衝撃が加わる。熱膨張による気流でダウンバースト相当の乱流も発生する」
しんと静まり返った廊下で、ニャえもんの目が少しずつ泳ぎ始めた。
「つまり——」のび太一は静かに結論を言った。「どこでもドア、使うたびに人が死ぬな」
ニャえもんは長い沈黙の後、額に玉の汗を浮かべて、ぽつりと言った。
「……そ、そういえばお腹が空いてきたな!」
ピンクのドアは、静かにポケットの中へと消えた。
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第二章 タケコプター
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翌日の午後、ニャえもんは屋根の上に座っていた。子どもの頃、よく二人でここから夕焼けを見た場所だ。のび太一が隣に腰を下ろすと、ニャえもんはすでに例の顔をしていた。
「今日こそはこれだよ! じゃじゃーん! 『タケコプター』!!」
ポケットから、竹とんぼ型の小さな道具がひょいと飛び出した。夕暮れの光の中できらりと輝いた。
「頭に付けるだけで空が飛べるんだよ! 昔みたいに飛ぼうよ、のび太一くん!」
のび太一はそれを受け取り、しばらく手のひらの上でそっと転がした。
子どもの頃、この道具で何度飛んだだろう。夕焼け色の空の中を、ニャえもんと並んで飛んだあの感覚は、今でも身体のどこかに残っている。
それでも、のび太一は言わなければならなかった。
「……体重六十五キログラムの人間を浮かせるには、揚力が六百三十七ニュートン以上必要だ」
「の、のび太一くん……」
「タケコプターの翼面積を仮に五十平方センチメートルとして、揚力の式L=½ρAv²Cₗに代入する。空気密度ρ=一・二九、揚力係数Cₗ=一・二として解くと、必要な翼端速度は秒速約二百メートルになる」
ニャえもんは目を白黒させている。
「回転するプロペラには反トルクが生じる。支点は頭と首の接合部だ。首にかかる力のモーメントは計算上、数百ニュートン・メートルのオーダーになる。人間の頸椎が破壊されるトルクは、研究によれば約十から十五ニュートン・メートル。つまり——」
「つ、つまり……?」
「装着した瞬間、首がおよそ二十倍以上の力でもがれる」
沈黙が落ちた。屋根の上を風が吹き抜けた。
「急上昇・急停止では慣性力が数十Gに達する。脳への血流が完全に遮断されてブラックアウトする。飛ぶ前に死ぬな」
ニャえもんはそっと自分の首に手を当てた。
「……た、確かにちょっと首が痛かった気がしてきた……」
タケコプターは、そのままのび太一の手からニャえもんのポケットへと吸い込まれた。
二人はしばらく黙って、夕焼けを眺めた。飛べなくても、この景色だけは子どもの頃と同じだった。
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第三章 スモールライト
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三日目の朝、二人は近所の公園のベンチに並んで座り、子どもたちが遊ぶ姿をぼんやりと眺めた。
鳩が一羽、足元にやってきた。パンくずをつつきながらのんびり歩いている。
「ねえ、あの鳩を小さくして手に乗せたら可愛くない?」
ニャえもんはそう言いながら、ポケットに手を入れた。指先でまさぐること数秒、ほれと引き出したのは銀色の小さなライトだった。
「じゃじゃーん! 『スモールライト』! 照らすだけで何でも小さくなるよ!」
銀色の小さなライトが朝の光を反射した。
のび太一はライトを手に取り、構造を眺めた。エミッターの口径、おそらく発光面積は数平方センチメートル。
「……化学結合長は物理定数で決まっている」
「え?」
「炭素と炭素の共有結合は一・五四オングストローム、酸素と水素の結合は〇・九六オングストローム。これはボーア半径と電子の電荷・質量から導かれる値で、スケール変換できない。宇宙がどう変わっても変わらない定数だ」
「う……うん……」
「仮にこのライトが体を十分の一に縮めるとしよう。全原子間距離が十分の一になる。その瞬間、すべての化学結合が崩壊する。タンパク質、DNA、細胞膜、神経伝達物質——すべて構造が壊れる。縮む、んじゃなくて——」
のび太一は静かに続けた。
「分子レベルで爆発する」
ニャえもんはライトをぼんやり見つめた。足元の鳩が、興味なさそうに飛び立って行った。
「……い、今まで誰も死ななかったからセーフだと思ってた……」
「それは物語の中だけだ」
スモールライトはポケットの奥へと消えた。二人は何も言わずに鳩の消えた方角を見ていた。
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第四章 タイムマシン
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四日目の夜、二人は実家の押し入れの前に座っていた。
引き戸を引くと、そこにあった。あの赤いタイムマシン。子どもの頃に何度も乗り込んだ乗り物。恐竜を見に行った。古代エジプトに行った。未来ののび太一に会いに行った。
ニャえもんは誇らしげに胸を張った。
「これはもう説明不要でしょ! 『タイムマシン』! 過去も未来も自由自在! 説明書きも不要!」
のび太一はタイムマシンをじっと見つめた。
胸の中に何かが込み上げる感覚があった。これに乗ってパパとママの若い頃を見に行ったこと。未来の自分が立派な科学者になっていると知ったこと——それがのび太一を物理学に向かわせた、ある意味での原点だった。
だから余計に、言わなければならなかった。
「地球は太陽の周りを、秒速二十九・八キロメートルで公転している」
「の、のび太一くん……」
「太陽系ごと、銀河系を秒速二百二十キロメートルで移動している。さらに銀河系そのものも宇宙の中で移動している。これらを合算すると、一秒前の『地球がいた場所』は、今の地球から少なくとも数百キロメートル離れた宇宙空間だ」
「……」
「このタイムマシンが時間だけを移動させ、空間座標を自動補正しないとすれば——帰還先は宇宙空間の真空だ。気温マイナス二百七十度、気圧ゼロ。到着から〇・数秒で意識を失い、数十秒で死ぬ」
のび太一は、壊れた機械のような静けさで言った。
「……空間座標の自動補正機能はついているか?」
ニャえもんは慌ててタイムマシンの内側をまさぐり、マニュアルのページをめくった。
「え、えーと……あっ……書いてない……」
押し入れの引き戸は、そっと閉められた。
のび太一はしばらく黙って、閉じられた押し入れを見つめた。その向こうには、あの日の恐竜も、ピラミッドも、若い父と母も、すべてが収まっているような気がした。
手が届かないのは、物理法則のせいじゃないかもしれない。
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第五章 もしもボックス
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五日目の昼下がり、ニャえもんがポケットに両手を突っ込み、うんうん唸りながら何かを引っ張り出そうとしていた。
「ちょっと待って……もうちょっと……よいしょ……」
ぽん、と音がして、庭に赤い電話ボックスが出現した。ポケットの中がどういう構造になっているのか、のび太一は改めて考えないようにした。
「じゃじゃーん! 『もしもボックス』! 電話で『もし〇〇だったら』と言うだけで、その世界に移動できるよ! もし地球に戦争がなかったら! もし空を人間が飛べたら! なんでもアリ!」
のび太一は電話ボックスの外側を一周した。塗装は少し剥げている。受話器が銀色に光っている。
「並行世界に移動するとして——その世界の物理定数は、この宇宙と同一だと保証されているか?」
「ぶ、物理定数……?」
「微細構造定数α、万有引力定数G、プランク定数ħ。これらが僅かでも異なれば、原子の電子軌道が変わる。炭素ベースの生命体が成立しなくなる。人間が存在できない宇宙になる」
「で、でも『もし地球に車がなかったら』みたいな軽い設定変更だよ?」
「軽い、とは言えない。歴史の改変は物質とエネルギーの配置を変える。量子揺らぎが蓄積されれば、億年のスケールで物理定数への影響がゼロだとは言えない。移動先の宇宙で、僕の体が崩壊する可能性について——仕様書に記載はあるか?」
ニャえもんは受話器をぼんやり眺めた。
「……仕様書は……二十二世紀の言語で書いてあるから……読めないんだよね……」
赤い電話ボックスは、翌朝には庭から消えていた。ポケットに戻ったのだろう。
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第六章 翻訳こんにゃく
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六日目の夕食は、のび太一が料理を作った。といっても簡単な味噌汁と卵焼きだが、ニャえもんは「美味しい!」と言って三杯おかわりした。
食卓を片付けながら、ニャえもんがポケットから白いこんにゃくを取り出した。
「じゃじゃーん! 『翻訳こんにゃく』! 食べるだけであらゆる言語が話せるよ! 英語でも中国語でも、果ては動物の言葉まで!」
のび太一は洗い物をしながら答えた。
「食べた物は胃で塩酸と消化酵素によって分解される。タンパク質はアミノ酸に、脂質は脂肪酸に。pH一から二の環境で、複雑な有機分子は原形をとどめない」
「う……うん……」
「その分解産物が脳の言語野に到達するには、血液脳関門を通過する必要がある。BBBは分子量四百ダルトン以上の物質を原則として遮断する。大半の生体分子は通れない。仮に通過できたとしても——言語記憶はシナプスの結合パターンによって成立する。化学物質がそのパターンを特定言語に書き換えるメカニズムは、現代科学では発見されていない」
ニャえもんはこんにゃくを持ったまま、しゅんとした。
「それから」のび太一は手を止めずに続けた。「動物語の翻訳こんにゃくも確かあったな。犬の発声を翻訳したとして、チョムスキー的には犬の通信系は有限状態文法の範疇を出ない。つまり翻訳しても『腹が減った』か『あいつが嫌いだ』くらいしか出てこないはずだが」
「……で、でも美味しいし! 食べるという体験が大事なんだよ!!」
ニャえもんのやけくそ気味な声が、台所に響いた。のび太一は少しだけ笑った。
翻訳こんにゃくはしぶしぶポケットへ。ただし、その夜のうちにニャえもんは残りのこんにゃくを普通におかずとして全部食べた。
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第七章 コピーロボット
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七日目の朝、のび太一が大学の論文原稿に向かっていると、ニャえもんが背後から顔を出した。
「のび太一くん、忙しそうだね。じゃあこれだよ! じゃじゃーん! 『コピーロボット』! 頭のつむじを押すと、君のコピーが出てきて代わりに仕事してくれるよ!」
ポケットから取り出されたのは、小さな白いロボットの人形だった。ニャえもんがそのつむじをぽんと押した瞬間、部屋の真ん中に等身大の存在が現れた。のび太一の顔に、のび太一の服。しかし目の焦点が少しぼんやりしている。
のび太一はキーボードから手を離し、コピーロボットをまじまじと眺めた。
「……人体を完全コピーするには、脳のシナプス接続パターンを完全に読み取る必要がある」
「う、うん」
「シナプスの数は推定で一四乗から一五乗個。それぞれの結合強度・方向・化学的状態まで含めると、情報量は一六乗ビットのオーダーになる」
「一六乗……」
「そもそも、ノー・クローニング定理という量子力学の基本原理がある。未知の量子状態を同一に複製することは、原理的に禁じられている。このロボットが作れるとすれば、それは僕の完全コピーではなく——外見と大まかな行動パターンが似ているだけの別人だ」
コピーロボットは、のび太一とニャえもんの会話を聞きながら、なぜかにこにこしていた。
「そいつに今日の論文原稿を任せたら、結論が全然違うものになって提出される可能性がある」
ニャえもんはコピーロボットをじっと見た。
「……た、確かに鼻の穴が微妙に大きい気がしてきた……」
コピーロボットは以後、論文作業には使用されなかった。代わりに洗い物と掃除を担当した。これはこれで有能だった。
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第八章 石ころぼうし
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八日目の午後、ニャえもんが珍しく自信なさげに、ポケットをごそごそと探った。少し迷うような間があってから、くたびれた麦わら帽子に似た帽子が取り出された。
「じゃ……じゃじゃーん。『石ころぼうし』。被ると、誰にも気にされなくなるよ」
素朴な帽子だった。
「……認知的無視は、確かに実在する現象だ」
「そ、そうでしょ!」ニャえもんが少し前のめりになった。「ジャイガンにだって気づかれなかった!」
「ただし、それは注意が別の対象に向いているときに限られる。人間の末梢視野には、動く物体を自動検出する機構がある。帽子を被って歩いていても、接近する車のドライバーから見れば動く障害物として認識される。交差点での交通事故リスクは、帽子なしのときより高い」
「……」
「被ると無敵になるんじゃなくて、被ると交通事故で死亡する確率が上がる可能性がある」
ニャえもんはしばらく帽子を見つめた。それから小声で言った。
「……でも……ジャイガンに気づかれなかったのは本当だよ……(ぼそ)」
帽子は一応ポケットへ。ただしこの日だけ、ニャえもんはわずかに反論できそうな顔をしていた。
のび太一は内心、それが少し可愛いと思った。
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第九章 四次元ポケット
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九日目。
のび太一がいつものように指摘を準備していると、ニャえもんが先手を打った。
「ちょっと待って! 道具じゃなくて、道具を入れてる『四次元ポケット』は文句ないだろ! これは僕の体の一部だし!」
のび太一は一瞬黙った。
「……そこに来たか」
ニャえもんが珍しく得意げな顔をした。
のび太一は天井を仰いだ。それからゆっくり口を開いた。
「余剰次元のコンパクト化には、プランクスケールのエネルギーが必要だ。一〇のマイナス三十五乗メートルのスケールに対応するエネルギーで——現在の全人類のエネルギー消費量の宇宙年齢、つまり百三十八億年分を超える」
ニャえもんの得意げな顔が、じわじわと崩れていった。
「ポケットの開口部を四次元空間にトポロジカルに接続する安定した幾何構造は、理論物理学的に知られていない。接続点は特異点になり、情報とエネルギーが発散する」
「……」
「また、ポケット内部空間の温度・気圧管理機構がないなら、収納されている道具はすべて宇宙空間相当の環境——マイナス二百七十度、気圧ゼロ——に晒され続けている。どこでもドアは凍りついていないか?」
長い沈黙が流れた。
「……ポケットの中を見るの……怖くなってきた……」
ニャえもんはそっとポケットに手を当てたまま、動かなくなった。
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第十章 ねむりガス
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十日目の夕方、近所の公園を歩いていると、ジャイガンが向こうから歩いてきた。
大人になったジャイガンは、工務店を継いで立派な棟梁になっていた。ただし、声の大きさと態度の悪さだけは子どもの頃から何も変わっていない。
「あ? のび太一じゃないか。大学の先生になったって聞いたぞ。研究室とやらで何してんだ、ひょろひょろのくせに」
ニャえもんがぴりっとした空気を察して、反射的にポケットに手を突っ込んだ。
「こうなったらこれだ! じゃじゃーん! 『ねむりガス』! 吸った全員が即座に眠るよ!」
のび太一はニャえもんの腕をとっさに押さえた。
「待て」
ニャえもんが目を丸くした。
「……二〇〇二年、モスクワ。チェチェン武装勢力が劇場を占拠した事件を知っているか」
「え……な、なに急に」
「ロシア当局が制圧のために吸入型鎮静ガスを使用した。フェンタニル系の薬剤とされている。結果——人質百二十九名が死亡した。ガスが原因だ」
ジャイガンが、なぜか固まっている。
「有効鎮静濃度と致死濃度の差、つまり治療指数が非常に小さい吸入鎮静剤は、屋外での散布においてほぼ制御不可能だ。体重、代謝、基礎疾患によって有効量は個人で大きく異なる。子ども、老人、心疾患を持つ人間……全員に同じ濃度を公園で散布したら、何人が帰らなくなるか計算しようか」
静寂が落ちた。
「……ジャイガン」のび太一はジャイガンの方を向いた。「お前、工務店繁盛してるらしいな」
「……お、おう……まあな……」
「また飲みに行こう」
ジャイガンはしばらく黙った後、「……ああ」とだけ言って、大きな背中を向けて歩き去った。
ねむりガスはこの日以来、永久に封印された。
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第十一章 ガリバートンネル
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十一日目。ニャえもんが「これだけは絶対に大丈夫!」という顔でポケットに手を入れ、折り畳まれた薄い布のようなものを取り出した。広げると、人が一人くぐれるほどのトンネルになった。
「じゃじゃーん! 『ガリバートンネル』! 片方を通ると大きく、もう片方を通ると小さくなる! 楽しいだけで危険はゼロ! 絶対!」
「……ガリレオ・ガリレイが一六三八年に指摘した二乗三乗則を知っているか」
「……き、聞きたくないな……」
「体長がn倍になると、骨の断面積はn二乗倍になる。しかし体重はn三乗倍になる。n=十、つまり十倍に巨大化した場合——骨は百倍の強度が必要だが、骨断面積の増加は百倍止まりだ。体重は千倍になる」
ニャえもんがうつむき始めた。
「つまり十倍に巨大化した人間は、立ち上がった瞬間に大腿骨が粉砕骨折する。自分の体重で潰れる」
「……」
「さらにスモールライトと同じ問題で、原子間距離は変わらないから全分子構造が崩壊する。二重に死ねる道具だ」
ニャえもんは遠い目をした。
「……だから……のび太一くんはいつも泣いてる方が……好きだったよ……」
その声が、思いのほか小さくて、のび太一は少し胸が痛くなった。
ガリバートンネルは折り畳まれて、ポケットの一番奥へと消えた。
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第十二章 あんきパン
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十二日目。大学院の後輩から「試験前夜で死にそうです」という連絡が来た翌朝、ニャえもんが台所でパンを焼いていた。
「これだよ! これ! じゃじゃーん! 『あんきパン』! 教科書に押し付けて食べると、全部記憶できるよ! 試験前夜の最強兵器!」
焼きたてのパンがいい匂いを漂わせていた。
のび太一はコーヒーを入れながら答えた。
「情報は物質とは独立した概念だ。クロード・シャノンの情報理論では、情報量はH=マイナスΣp log pで定義される。インクの化学組成に『教科書の内容』がエンコードされているわけではない」
「う……うん……」
「仮にエンコードされていたとしても、胃酸のpH一から二の環境ですべての複雑分子は分解される。消化産物が血液脳関門を通過し、言語野に特定知識として書き込まれるメカニズムは現代科学では未発見だ」
「……はい……」
「そもそも海馬への長期記憶固定には、睡眠・反復・感情的文脈が必要なことが多くの研究で示されている。パンを食べた後すぐに試験を受けても、記憶が固定される保証がない」
ニャえもんがしょんぼりした。
のび太一はコーヒーカップを置いた。
「ただ——」
「え?」
「プラセボ効果は本物だ。試験前夜に『これを食べれば大丈夫』と信じることで、不安が軽減され、前頭前野のパフォーマンスが実際に向上することがある。睡眠の質も改善される」
ニャえもんが顔を上げた。
「……つまり?」
「あんきパンを食べて落ち着いて眠れるなら、間接的には効果がある。そこだけは否定しない」
ニャえもんは、じわじわと涙目になった。
「……今のび太一くんが……一番良いことを言った……」
二人は並んで、あんきパンを食べた。少し甘くて、懐かしい味がした。
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第十三章 ニャえもん
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十三日目の夜だった。
すべての道具が論破され、ポケットの中には何も入っていないような——そんな錯覚を覚えるほど、ニャえもんはしょんぼりしていた。二人は並んで押し入れの前に座っていた。子どもの頃と同じ場所に。
しばらく沈黙が続いた後、ニャえもんが静かに口を開いた。
「……のび太一くん」
「なに」
「道具は全部……矛盾してた。物理法則に反してた。子どもたちに夢を見せすぎてた」
「そうだな」
「じゃあ……僕自身は?」
のび太一が顔を上げた。
「ロボットの猫が喋って、ポケットから道具を出す。それも矛盾してる?」
のび太一は少しの間、ニャえもんを見た。丸い顔。丸い目。首の赤いリボン。子どもの頃から何一つ変わっていない。
それから、のび太一はゆっくりと言った。
「……ニャえもん。お前が二十二世紀の技術で作られた存在で、現在の物理学で説明できないことは分かってる」
「……」
「でも——お前が僕の隣にいて、一緒に悩んで、泣いて、笑った。お前が来なかったら、僕は物理学をやっていなかったかもしれない。タイムマシンで未来の自分を見せてもらったあの日がなかったら、僕は今ここにいない」
ニャえもんが目を輝かせた。ガラス玉みたいな目に、部屋の電球の光が映り込んでいた。
「その事実は——どんな物理法則でも否定できない」
沈黙が落ちた。
「道具は全部しまっておけ。それで十分だ」
ニャえもんは長い間、何も言わなかった。
やがて、ぐす、と小さな音がした。
「……のび太一くんの……バカ……」
二人は笑った。笑いながら、どちらかが泣いていた。どちらが先に泣いたのかは、分からなかった。
* * *
その夜遅く、のび太一はひとりで屋根に上った。
東京の夜空は明るすぎて星が見えない。子どもの頃も、ここから見上げた空はいつも薄曇りだった。それでも、タケコプターで飛んだあの夜は、雲の上に出たら星が見えた。ニャえもんと並んで、しんと静まり返った夜空の下に浮かんでいたあの感覚。
あれは本物だった。
どこでもドアが爆風を起こすとしても。タケコプターが首を折るとしても。
あの星空は本物だった。
スマートフォンに着信が来た。後輩からだった。「先生、試験終わりました。なんか落ち着いて解けた気がします」。のび太一は少し笑って、「よかった」とだけ返信した。
押し入れに戻ると、ニャえもんはもう眠っていた。穏やかな寝顔だった。
のび太一は布団をかけてやり、部屋の電気を消した。
暗闇の中、ニャえもんの鈴が、かすかに鳴った。
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エピローグ ― 夢について
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翌朝、ニャえもんはいなくなっていた。
押し入れには何も残っていなかった。ただ、布団の上に小さなメモが一枚置いてあった。
——「のび太一くんへ。道具は全部しまっておく。その方が良さそうだから。でも、また来るよ。ニャえもんより」
のび太一はそのメモをしばらく眺め、それから大学に向かった。
いつもと変わらない、東京の朝だった。
* * *
子供に夢を見せることと、嘘をつくことの違いについて、のび太一はのちに何度か考えた。
物理法則に反する道具は、確かに現実には存在しない。どこでもドアは爆風を起こす。タケコプターは首を折る。スモールライトは人を殺す。
しかし——
あの青いロボットが押し入れから出てきた日、のび太一は初めて「未来は変えられる」と信じた。タイムマシンで見せてもらった未来の自分が、それを証明していた。フィクションの中の、物理法則を無視した「証明」が。
夢は、正確である必要はないのかもしれない。
ただ、信じられれば良い。
信じた先に、自分で歩いた道があれば、それで十分なのかもしれない。
野比のび太一。三十五歳。東京大学大学院理学系研究科・物理学専攻・博士。
専門は流体力学と量子情報理論。
幼少期にネコ型ロボットに育てられた。
ところで、この作中でニャえもんはどうやって来たの?タイムマシンってやつー?




