三度目の婚約保留を告げた王子殿下に、最後の忠告をいたしました
第一王子エルグレン殿下が、私との婚約発表を保留にしたのは、これで三度目だった。
一度目は、王妃陛下のご体調を理由に。
二度目は、西方諸侯との調整がついていないことを理由に。
そして三度目の今夜は、王宮の大広間に貴族たちが集まり、楽団が祝賀の曲を用意し、誰もが発表を待っている、その直前だった。
「メルヤ、本当にすまない」
控えの間で、エルグレン殿下は困り果てた顔をしていた。
淡い金の髪に、湖のような青い瞳。黙って立っていれば、絵姿の王子そのものだ。優しく、穏やかで、誰にでも礼儀正しい。侍女にも、衛兵にも、下働きの少年にも、彼は同じように微笑む。
けれど、その微笑みが国を治めるわけではない。
「もう少しだけ、待ってほしい」
私は、手にしていた白銀の扇を閉じた。
「殿下。もう少し、とは何日ですか」
「それは……」
「三日ですか。三月ですか。三年ですか」
エルグレン殿下は答えなかった。
この方は、いつもそうだ。
責められると黙る。
選べと言われると目を伏せる。
自分ではなく、誰かが正解を置いてくれるのを待つ。
私の名は、メルヤ・サザンリート。
北東部に領地を持つサザンリート侯爵家の長女であり、三年前からエルグレン第一王子の婚約者候補として、王太子妃教育を受けてきた。
婚約者ではない。
婚約者候補である。
その違いは、針ほど小さいようで、実際には崖ほど大きい。
「理由をお聞かせください」
「母上が、まだ決めるのは早いとおっしゃった。西方伯も、今発表すれば派閥の均衡が崩れると。それに、叔母上はネヴィロの立場も考えるべきだと……」
「つまり、殿下ご自身のお考えはどれですか」
殿下の言葉が止まった。
私は、その沈黙に少しだけ失望した。
今日まで、まったく期待していなかったわけではない。
この方が、自分の足で一歩だけでも前に出るなら。
私を選ばなくてもいい。婚約を解消してもいい。
ただ、自分で選んでほしかった。
「メルヤ、私は君を軽んじているわけではない」
「存じております」
「君が必要だと思っている」
「それも存じております」
「ならば」
「ですが殿下」
私は顔を上げた。
「必要だと言いながら、正式に選ばない。待ってほしいと言いながら、期限を示さない。私の立場を守りたいと言いながら、三度も公の発表を流す」
殿下の顔が青ざめる。
「それは、優しさではございません」
「では、何だと言うんだ」
「責任を他人に預けているだけです」
控えの間に、冷たい沈黙が落ちた。
そのとき、私の肩で、小さなものがくつくつと笑った。
灰色の、手のひらほどの蜥蜴である。
いや、蜥蜴ではない。
古竜トゥルカ。
建国の時代から王家を見てきた、面倒くさがりの守護竜だ。
王太子妃教育の最後には、必ずこの古竜との面談がある。王家に嫁ぐ者が、王家の顔色だけをうかがう人間では困るからだという。
もっとも、面談の初日にトゥルカ様は私の肩に乗り、「この娘は背筋がよい。しばらくここで昼寝する」と言って、それきり居座っている。
それ以来、私は王宮で最も口の悪い肩飾りを連れて歩くことになった。
本人は竜だと言い張るが、普段の姿はどう見ても、年を取った小さな蜥蜴である。
「よい斬り口だ、メルヤ。首は落とさず、言い訳だけを落とした」
「トゥルカ様、黙っていてください」
「黙っておったら、退屈で鱗が剥がれる」
エルグレン殿下は、古竜を見て顔をしかめた。
「トゥルカまで、私を責めるのか」
「責めてはおらぬ。観察しておる」
トゥルカは、私の肩の上で尻尾を揺らした。
「おぬしは、よく悩む。よく考える。人の話も聞く。そこまでは悪くない」
「ならば」
「だが、決めぬ」
トゥルカの金色の目が、細くなる。
「王座は椅子ではない。刃を預かる場所だ。座った者は、振るわずとも、誰かを傷つける決定からは逃げられぬ。誰も傷つけぬ王になりたいなら、はじめから王には向かぬ」
エルグレン殿下は、唇を噛んだ。
彼が愚かだとは思わない。
むしろ、愚かであれば、どれほど楽だっただろう。
横暴で、我儘で、私を飾りとしか見ていない王子なら、迷わず背を向けられた。だが、彼は違う。彼は本当に優しい。民の話を聞けば涙ぐみ、重税に苦しむ村があれば眠れなくなり、怪我をした馬がいれば式典を遅らせてでも様子を見に行く。
けれど、優しいことと、王であることは同じではない。
「殿下」
私は、まっすぐに告げた。
「私との婚約発表は、今夜も保留でよろしいのですね」
「……すまない」
「謝罪は結構です。確認だけで十分です」
「メルヤ」
「では、私から申し上げます」
私は、扉の向こうに続く大広間のざわめきを聞いた。
貴族たちは待っている。
発表を。
決定を。
第一王子が誰を隣に立たせるのかを。
彼らは、まだ知らない。
今日、私が口にするのは婚約の喜びではない。
「私は、エルグレン第一王子殿下の婚約者候補を辞退いたします」
殿下の瞳が大きく揺れた。
「待ってくれ。そこまで言わなくても」
「三度待ちました」
「次は必ず」
「その次は、誰が保証なさいますか」
殿下は、何も言えなかった。
「殿下。私は、あなたが嫌いで申し上げているのではありません」
私は、声を少し落とした。
「あなたは、お優しい方です。人の痛みを見ようとなさる。弱い者に目を向けられる。そこは、得がたい美点です」
「ならば、なぜ」
「王に必要なのは、痛みを見ることだけではありません。時に、その痛みの一部を引き受けると決めることです」
私は、一歩前へ出た。
「あなたは、王に向いておりません」
エルグレン殿下の顔から、色が消えた。
ひどい言葉だと、自分でも思う。
だが、誰かが言わなければならなかった。
王妃陛下は、息子を傷つけたくない。
国王陛下は、長子への期待を捨てきれない。
諸侯は、自分たちに都合のよい、決めない王太子を望む者もいる。
ならば、せめて私だけは言うべきだった。
「私は、あなたを支えるために学んできました。けれど、あなたを王にするために、国を危うくするつもりはありません」
殿下は、ゆっくりと椅子に腰を落とした。
その姿は、これまで見たことがないほど小さく見えた。
「失礼いたします」
控えの間を出ようとしたとき、殿下がかすれた声で言った。
「メルヤ」
「はい」
「私は、本当に、そんなに王に向いていないのか」
私は振り返った。
そこで嘘をつけば、彼は少しだけ救われたかもしれない。
だが、その嘘はいつか国を傷つける。
「はい」
私は答えた。
「ですが、王に向いていないことは、人として劣っているという意味ではありません」
殿下は、瞬きをした。
「あなたには、向いている場所が別にあります」
「別の場所……」
「それを探すのは、殿下ご自身のお役目です」
私は今度こそ扉を開けた。
大広間に出ると、視線が一斉に集まった。
楽団は演奏を止め、貴族たちは扇や杯を手にしたまま、こちらを見ている。
国王陛下の隣には、第二王子ネヴィロ殿下が立っていた。
黒に近い青髪の、静かな方だ。
兄であるエルグレン殿下ほど華やかではない。微笑みも少なく、舞踏会では壁際にいることが多い。だが、会議の記録を読めば分かる。実際に王宮の滞った案件を処理しているのは、ほとんどネヴィロ殿下だった。
堤防の修繕費を確保したのも、東方の麦価暴落に手を打ったのも、隣国との塩税交渉の草案を書いたのも、彼だ。
私は、国王陛下の前まで進み、深く礼をした。
「陛下。申し上げます」
「申せ」
「私、メルヤ・サザンリートは、エルグレン第一王子殿下の婚約者候補を辞退いたします」
広間がざわめいた。
王妃陛下が、扇で口元を覆う。数人の貴族が顔を見合わせる。誰かが小さく「まさか」と呟いた。
国王陛下は、静かに私を見下ろしていた。
「理由を聞こう」
「三度にわたる婚約発表の保留により、婚姻に必要な信頼関係を保つことが難しくなったためでございます」
「第一王子に非があると申すのか」
「非を申し立てるつもりはございません」
私は、顔を上げた。
「ただ、私は王家に嫁ぐ者として、曖昧な立場のまま公務に関わり続けるべきではないと判断いたしました」
それ以上は言わなかった。
私は、エルグレン殿下を傷つけるために辞退するのではない。
この国と、殿下ご自身のために、もう曖昧なままではいられないだけだ。
沈黙が落ちた。
そのとき、控えの間の扉が開いた。
エルグレン殿下だった。
顔色は悪い。
けれど、その足取りは、先ほどよりも確かだった。
「父上」
殿下は、国王陛下の前に進み出た。
「発言をお許しください」
「許す」
エルグレン殿下は、一度だけ私を見た。
私は何も言わなかった。
「メルヤは、私を公の場で責めませんでした」
殿下の声は、かすかに震えていた。
「ですが、私は自分で言わねばなりません」
広間が静まり返った。
「私は、王に向いておりません」
王妃陛下が息を呑んだ。
貴族たちの間に、鋭いざわめきが走る。
けれど、エルグレン殿下は逃げなかった。
「私は長く、誰も傷つけない選択を探していました。ですが、それは選択ではありませんでした。責任を先延ばしにしていただけです」
彼は、国王陛下の前に跪いた。
「ゆえに私は、王太子の地位を返上する意思を、ここに表明いたします」
私は、息を止めた。
殿下が、初めて自分で選んだ言葉だった。
広間が、大きく揺れた。
悲鳴に近い声が上がる。杯が床に落ちる音がした。諸侯たちが一斉に話し始める。
けれど、エルグレン殿下は跪いたままだった。
「王籍を離れるかどうか、どのような役目を担うかは、陛下と貴族院のご判断に従います。ですが、私はもう、王になるべき人間のふりを続けることはできません」
その姿を見て、私は胸の奥が痛くなった。
彼は、今、失っている。
王子として生まれた自分を。
皆が期待した未来を。
それでも、その顔は昨日よりもずっと王子らしかった。
「私は、民の声を聞く仕事がしたいのです」
エルグレン殿下は続けた。
「王都ではなく、地方へ行きたい。争いの前に立つのではなく、争いが起きる前の声を集めたい。陳情を聞き、記録し、王宮へ届ける役目なら、私は逃げずに務められると思います」
「思います、か」
国王陛下が低く言った。
エルグレン殿下は、一度だけ目を伏せた。
そして、言い直した。
「務めます」
国王陛下は、長い沈黙の後、玉座から立ち上がった。
「エルグレン」
「はい」
「そなたの意思は聞いた。だが、王太子の返上も、王籍を離れることも、この場の感情で決めてよいものではない」
「承知しております」
「明朝、貴族院と枢密会議を招集する。そこで正式に審議する」
「はい」
「ただし」
国王陛下は、厳しい声で続けた。
「王座から降りることと、責任から逃げることは違う。そなたが本当に臣下として仕えると言うなら、王子であったことを言い訳にするな」
エルグレン殿下は、はっと顔を上げた。
国王陛下は、息子を見下ろしていた。
「民は、そなたが迷った理由まで汲んではくれぬ。それでも務めるか」
「務めます」
「後悔するかもしれぬ」
「すると思います」
広間が静まり返った。
エルグレン殿下は、苦笑した。
「ですが、後悔を理由に選ばずにいることは、もうやめます」
国王陛下の表情が、ほんの少しだけ歪んだ。
父の顔だった。
「ならば、明日から証明してみせよ」
「必ず」
その声は、まだ弱かった。
だが、確かに彼自身のものだった。
その瞬間、トゥルカが大きく欠伸をした。
「ようやく卵が割れたな」
エルグレン殿下が、苦笑した。
「私は二十四だ、トゥルカ」
「竜から見れば、まだ黄身も固まっておらぬ」
今度こそ、広間のあちこちで笑いが起きた。
王妃陛下も、涙を浮かべながら、ほんの少しだけ笑っていた。
数日後、エルグレン殿下の王太子返上は正式に認められた。
同時に、本人の希望により、王籍を離れ、臣下として北方巡察書記官に任じられることが決まった。
そして、第二王子ネヴィロ殿下が、新たな王太子として立つことも発表された。
ネヴィロ殿下は、貴族院の前で静かに膝をついたという。
「拝命いたします」
兄とは違い、その声に震えはなかった。
だが、重みはあった。
彼は、兄の喪失の上に立つことを理解していた。
だからこそ、浮かれなかった。
その翌朝、私は王宮の東庭に呼ばれた。
朝露に濡れた白い石畳の先で、ネヴィロ殿下が待っていた。
そばには、トゥルカがいた。
なぜか、小さな銀皿に焼き菓子を積み上げている。
「トゥルカ様」
「朝食だ」
「それは、王宮の来客用菓子ではありませんか」
「古竜も来客だ」
「盗み食いでは」
「供物と呼べ」
私はため息をついた。
ネヴィロ殿下が、少しだけ笑った。
その笑みは控えめで、けれど不思議と柔らかかった。
「メルヤ嬢。来てくれて感謝する」
「新王太子殿下に呼ばれて、来ない者はおりません」
「その呼び方は、まだ重いな」
「慣れてください。王冠はもっと重いでしょうから」
「そうだな」
彼は、逃げずに頷いた。
それだけで、私は少し安心した。
エルグレン様なら、ここで「まだ正式ではない」と言っただろう。あるいは、「皆がそう呼ぶには早い」と困った顔をしたかもしれない。
ネヴィロ殿下は違う。
重いものを、重いまま受け取る。
「メルヤ嬢」
「はい」
「あなたに、私の婚約者となってほしい」
私は、予想していなかったわけではない。
だが、すぐには答えなかった。
「私は、昨夜までエルグレン様の婚約者候補でした」
「知っている」
「私は、王子殿下ご本人に、かなり耳の痛いことを申し上げる女です」
「知っている」
「可愛げはございません」
「国政に必要なのは、可愛げより判断力だ」
「それは、私を便利な刃として使いたい、という意味ですか」
ネヴィロ殿下は、そこで初めて言葉を止めた。
私は一歩も引かずに続ける。
「必要なときだけ私に斬らせ、ご自分は血を浴びずに済ませる。そのような形なら、私はお受けできません」
ネヴィロ殿下は、しばらく私を見ていた。
そして、深く頭を下げた。
「その通りだ」
私は、少しだけ驚いた。
「私は昨夜、兄上を止めなかった。あなたが言うまで、兄上の迷いに向き合わなかった。私もまた、自分で斬るべき場面をあなたに任せた」
彼は、顔を上げた。
「それを便利だと思ったことはない。だが、結果としてそうなった」
朝の風が、庭の木々を揺らした。
「だから、改めて頼みたい」
ネヴィロ殿下は、まっすぐに私を見た。
「私の代わりに斬ってほしいのではない。私が斬るべきものを見誤ったとき、止めてほしい。私が逃げたとき、逃げたと言ってほしい。私があなたを刃として扱おうとしたとき、その手を斬ってほしい」
トゥルカが、焼き菓子をくわえたまま言った。
「手を斬るのは比喩か」
「比喩です」
「つまらぬ」
「トゥルカは黙っていてください」
ネヴィロ殿下が、今度ははっきり笑った。
私は、その笑い方を初めて見た。
静かな人だと思っていた。
けれど、静かなだけではない。
この人は、たぶん私の言葉を怖がらない。
痛がるだろう。
怒ることもあるだろう。
それでも、聞く。
「メルヤ嬢」
ネヴィロ殿下は、もう一度言った。
「あなたに、私の隣に立ってほしい。王太子妃としてだけではない。この国の未来を決める者の一人として」
私は、すぐには返事をしなかった。
空を見上げる。
雲は薄く、朝の光が王宮の塔にかかっていた。
昨日まで、私は第一王子の隣に立つために学んできたと思っていた。
だが、違ったのかもしれない。
私は、誰かの飾りになるために学んだのではない。
誰かの迷いを隠すために学んだのでもない。
国を見るために、学んできたのだ。
「殿下」
「はい」
「一つ、条件がございます」
「聞こう」
「私が間違えたときは、殿下も私を止めてください」
ネヴィロ殿下の目が、わずかに見開かれた。
「私は、強い言葉を使います。正しいと信じたら、進みすぎることもあるでしょう。斬ることに慣れれば、斬らなくてよいものまで斬るかもしれません」
私は、自分の手を見る。
この手は、剣を握ったこともある。
書類を直したことも、地図に印をつけたことも、泣いている侍女の背をさすったこともある。
だが、正しさはいつも人を救うとは限らない。
「そのとき、私を恐れず止めてくださいますか」
ネヴィロ殿下は、静かに頷いた。
「約束する」
「では」
私は膝を折り、礼をした。
「メルヤ・サザンリートは、ネヴィロ新王太子殿下の婚約者となることをお受けいたします」
ネヴィロ殿下が、私に手を差し出した。
その手を取る。
彼の手は、思っていたより温かかった。
その瞬間、トゥルカが銀皿の上で満足げに頷いた。
「うむ。多少は釣り合ったな」
「多少ですか」
ネヴィロ殿下が苦笑する。
「竜の評価で多少なら上出来だ」
「光栄です」
「ただし、まだ卵から顔を出した程度だ」
「私もですか」
「人間はだいたい卵だ。たまに半熟がおる」
私は笑ってしまった。
王宮の東庭に、朝の光が広がっていく。
その後、エルグレン元第一王子は王都を離れ、北方の巡察書記官として赴任した。
華やかな役職ではない。冬は厳しく、道は悪く、陳情の大半は地味で面倒なものばかりだ。
だが、数か月後に王宮に届いた手紙には、こう書かれていた。
『昨日、村の水路争いを三時間聞いた。結論はまだ出ていない。だが、全員が怒鳴り終えるまで座っていたら、最後に一人が茶を出してくれた。王子だったころより、今のほうが人の声を聞けている気がする』
その手紙を読んだとき、私は少しだけ笑った。
彼は、王には向いていなかった。
けれど、誰かの声を聞き続ける仕事には、向いているのかもしれない。
ネヴィロ殿下は、その手紙を読み、静かに言った。
「兄上らしい」
「心配ですか」
「している」
「行きますか」
「行かない」
私は、少し意外に思って彼を見た。
ネヴィロ殿下は、書類に目を落としたまま言った。
「兄上が自分で選んだ場所だ。私がすぐ見に行けば、兄上は今度は私の顔色を見る」
「なるほど」
「ただし、冬用の外套は送る。寒さで倒れられては困る」
「お優しいですね」
「兄だからな」
私は微笑んだ。
その横で、トゥルカが暖炉の前に丸まっていた。
「外套より蜂蜜酒を送れ。北方は冷える」
「あなたが飲みたいだけでしょう」
「古竜の健康管理だ」
「糖分を控えてください」
「メルヤは婚約者になってから小言が増えた」
「王宮の健康を守るのも務めです」
「儂は王宮ではない」
「王家の守護竜でしょう」
「都合のよいときだけ思い出すな」
ネヴィロ殿下が、声を殺して笑った。
私は、書類を一枚めくる。
机の上には、山のような案件が積まれている。
西方の関税。
北方の水路。
王都の孤児院の予算。
貴族院からの反対意見。
どれも簡単ではない。
誰も傷つけずに済む答えなど、どこにもない。
けれど、今の私は知っている。
選ぶことは、誰かを切り捨てることだけではない。
自分が背負える重さを知り、背負えないものを認め、必要な場所に人を置くことでもある。
エルグレン様は、王座から降りた。
ネヴィロ殿下は、王座へ進んだ。
私は、隣に立つことを選んだ。
誰も、昨日までの形のままではない。
だが、それでよかったのだと思う。
「メルヤ」
ネヴィロ殿下が、私を呼んだ。
「この予算案だが、君ならどこを削る」
私は書類を受け取り、ざっと目を通した。
そして、赤いインクのペンを取る。
「まず、この記念塔の修繕費です」
「そこからか」
「雨漏りしている孤児院より、記念塔の金箔を優先する理由がありません」
「貴族院が怒る」
「怒らせてください」
「頼もしいな」
「殿下」
私は顔を上げた。
「怒らせるのは、殿下のお仕事です。私は理由を整えるだけです」
ネヴィロ殿下は、一瞬だけ目を丸くした。
それから、楽しそうに笑った。
「手厳しい」
「最初から申し上げております」
「そうだったな」
彼は、私の赤い印を見て頷いた。
「では、怒らせに行こう」
トゥルカが暖炉の前で片目を開けた。
「よい。ようやく王宮らしくなってきた」
「王宮らしいとは?」
私が尋ねると、トゥルカは尻尾をゆらりと動かした。
「誰かが迷い、誰かが斬り、誰かが選ぶ場所だ」
そして、少しだけ笑ったように見えた。
「ただし、斬った後に茶を出せるなら、なおよい」
私は、ネヴィロ殿下と顔を見合わせた。
それから、二人で笑った。
窓の外では、冬の光が王宮の庭を照らしている。
春はまだ遠い。
けれど、遠いからこそ、そこへ向かう道を決める意味がある。
私は赤いペンを置き、新しい紙を引き寄せた。
隣には、逃げずに重さを受け取る人がいる。
遠い北方には、自分で選んだ場所に立とうとしている人がいる。
肩の近くには、相変わらず口の悪い古竜がいる。
それなら、この先もきっと大丈夫だ。
いいえ。
大丈夫にするのだ。
私たちは、そう決めたのだから。




