01 - つり革
俺はちょっとした潔癖症だ。
「ちょっとした」であって、ちゃんとした重い潔癖症ではないと思っている。
触れられないこともないのだが、
それでもたくさんの人が触るドアノブや手すりには、
できればあまり触れたくはない。
もし触れてしまった場合はウェットティッシュで拭くだけではなく、
きちんと石鹸で洗わないと気が済まなかった。
これが俺にとって特に問題になったのは…電車のつり革だった。
通勤時、俺が電車に乗る頃には、
満員電車というわけではないが、立っている人がほどほどにいて、
当然俺が座る場所はなくなっていた。
だから俺も同じように立つしかないのだが、
ここで俺の潔癖が悪く作用してしまう。
つり革に触るのがひどく辛いのだ。
あの脂ぎったおじさんたちが何度も触れたであろう、
独特のぬめりとした気持ちの悪い感触は、俺にはどうしても耐え難かった。
しかし、揺れる電車で支えがないのも、それはそれで心もとないし、
かといって電車の壁にもたれかかるのも、
尻以外の場所が誰かの痕跡に触れるようで落ち着かなかった。
なので、仕方なくつり革を掴んでいるのだが、
その間ずっと、知らないおじさんの頭皮や汚れた手に触れ続けているような、
吐き気を催す嫌な想像が俺の頭の中でぐるぐるとしてしまっていた。
もちろん他の移動手段も検討したのだが、俺の健康上の限界や金銭的な問題から、
結局電車に乗る必要があるという結論に至っていた。
そんなある日、俺はいつものように電車に乗ったのだが、
今日掴んだつり革は、前に掴んだ人が手汗をかいていたのか、
べちゃっとしていて、いつもより不快感がひどかった。
……ああ、気持ち悪い…
俺は苦痛に耐えていた。
考えないようにしたくても、嫌でも手に意識が集中してしまう。
指の表面から指の間にもじっとりと行き渡るように、
知らない人間の汗と人の脂がまとわりつく。
今から別のつり革を選び直せば良いのかもしれないが、
それはそれで、更に何か汚い物が上塗りされるような気分になる。
だから俺は必死に耐えていた。
目をつぶってひたすら耐えていた。
過呼吸になりそうなくらい空気を浅く吸って吐いて、気持ち悪いのを耐え、
強い吐き気を覚えても、手を強く握り、泣きそうになりながら顔を歪めて耐え、
それでも限界が来てどうにかなってしまいそうになった時――
――急に俺は…音が聞こえなくなった。
それだけじゃない。
肌の感覚も少し違う。電車特有の臭いもしない。
急に雰囲気が変わったことが恐ろしくなり、
呼吸を整えながら確認の為に、強く閉じていた目をゆっくりと開けると、
見渡す限り、一面真っ白な空間に俺は立っていた。
なんだここは。俺は電車に乗っていたはずだ。
荒く呼吸をして、先ほどまで感じていた吐き気を少しずつ落ち着かせながら、
きょろきょろと辺りを見回すが、全てが真っ白で距離感もつかめない。
そもそも、向こう側が壁なのかすら判断できなかった。
ぐるりと一周ほどしたところで、おおよそ元の位置に戻ると、
そこにはドレス姿の神々しいほどに美しい女性が立っていた。
「うおっ!」
自分一人だと思っていたので、唐突に現れた女性から飛びのいてしまう。
女性は詫びるように頭を一度下げ、柔和な表情をして俺に視線を合わせてきた。
「驚かせてすみません。ようこそいらっしゃいました。私はこの世界の女神です。あなたに力を与えましょう」
何を言っているんだ…この人は。
ああ、夢でも見ているのか。それにしては随分と現実感があるが。
「あ、いえ。こちらこそすみません。えと、力…ですか?」
「はい。どのような物でも一つだけ与えましょう」
「でしたら…電車のつり革に触れないで済む力が欲しいです」
「…は、はい? 今なんと?」
「ですから、電車のつり革を掴みたくないんです。自分潔癖症で…」
「あ、ああー…なる…ほど?」
俺の目下の問題はそれだけだった。
とにかくあの地獄の通勤時間から解放して欲しい。
「それで、力をもらえるんですか?」
「…あ、ああ、ええと、今からお渡ししますね。あなたにはこれから勇者として、魔王を討伐してもらわなければなりませんから」
魔王ってなんだ。
俺にとっての魔王はつり革だ。
つり革を討伐でもすればいいのか。
女神と名乗る女性の輪郭がほんのりと黄金に輝くと、
俺に何か力が流れてくるような温かい感覚がした。
同時になんだかぼんやりと意識が薄れていく…
「今あなたに力を……あ、あれっ? 死んでない? えっ、あっ…す、すみません! こちらの手違いだったようです!」
霞んだ視界の中、俺の腕を見ると、向こうが透けて見えるほど薄くなっている。
女性の声がくぐもって聞こえるほど、どんどん意識が遠のいていく――
「あっ、待って。あなたの力中途半端に――」
何か最後に聞こえたような気がしたが、
俺は眠るような心地で全身が満たされ、ふらりとした。
――ガクッと俺の体が揺れた。
居眠りをした時の感覚と同じだった。
目の前にあったのはいつもの電車内の光景。
俺の前の席に座っていた女性がじろりと迷惑そうな顔をこちらに向けていた。
俺はその女性に軽く頭を下げると、
つり革に触れていない方の、ビジネスバッグを持ったままの手の甲を使い、
まだぼんやりとしていた意識を戻すため、軽く目をこすった。
あれはなんだったのだろうか…という気持ちはほとんどなかった。
なぜなら、俺は「力」の使い方を理解してしまっていた。
あの女性は本当に女神だったのだ。
魔王がどうとか…はよく分からないが、とにかく俺は力を手に入れた。
これで俺はつり革に触れずに済むのだ。
早速俺は力を使った。
俺の力はテレキネシス――離れた所から物体を掴む物だった。
これを使えばつり革に触れずに掴むことができる。
まさに今の俺にピッタリだ。ありがたい。あの女神には感謝してもしきれない。
俺は目に見えない力を伸ばし、手で掴むようにつり革を掴んだ。
しかしその瞬間、俺の脳内にものすごい量の情報が入り込んできた。
このつり革に触れたことのある全ての人物の過去…
なぜこのつり革がこれほど汚れているのか、
吐き気を催す情報が絶え間なく俺の脳内に注ぎ込まれてきた。
ショックに耐え切れず俺が意識を再び手放す前に、
これにはサイコメトリー、
残留思念を読み取る能力も付与されていたことに気付かされた。
そうか…本来はちゃんと力が触れたか理解する為の物で…
…過剰な能力……制御……が……
俺はぐにゃりとその場で崩れ落ちるように気を失った。
…
……あれ…ここは…
再び俺は真っ白な空間にいた。
同じように辺りを見回す。
一周すると、また女神と思われる女性がいた。
予想がついていたので、今度は驚かなかった。
ただ、今度の女神は別人…というか別柱だった。
「ようこそいらっしゃいました。私はこの世界の女神です。あなたに力を与えましょう」
「えっ?」
「突然のことに驚かれているのでしょうね。大丈夫です。あなたは選ばれたのです。あなたの望む力を一つだけ授けましょう」
「いや、もう俺は…」
「そうです。あなたは残念ながら…亡くなってしまったのです」
「あ、あぁそうなんですか」
なるほど。あのショックで俺は死んでしまったのか。
「落ち着いていらっしゃいますね」
「あぁ、まぁ…ちょっと疲れているだけかもしれません」
「…ええ、ええ、そうですよね。…それでは、あなたはどのような力を望みますか?」
「えーと…」
どうすればいいのだろう。どうも俺は死んでしまったらしい。
ということはもう、つり革のことは考えなくていいのか。
いや、この世界は俺のいた世界よりもっと不衛生なのかもしれない。
ここが似たような所なのかは分からないが、
魔王がどうとかさっき言われていたし。
もしかしたらつり革のような物か、
それ以上に嫌な物に触れなければならないのかも…
「…じゃあ、よごれを消す力をください」
「え、よごれですか?」
「はい。俺、潔癖症で…汚い物に触れないんです」
「は、はあ…そうなんですね」
「ええ。お願いできますか?」
「なんとかしてみます。少々お待ちくださいね」
女神の輪郭がぼうっと光り、前回と同じようにまた俺に力が注ぎ込まれる。
しかしそのタイミングで意識が遠のきだした。
…あれ…これって…
「…えっ? あれ…あなた、まだ死んでない…? そんなまさか。しかも別の力を持っている…? どういうこと?」
あ、やっぱりそうだ。
これ…また元の世界に戻るやつなんじゃ…
「あ、えっ、ちょっと。ちょっと待って! あなたへの力の譲渡はまだ――」
そう女神が言い切る前に視界が切り替わった。
体が尻から落ちそうになっていたが、すんでの所で電車の床に手をつけられた。
くそっ、汚い床に触れてしまった…
幸いつり革に触れていた方でまだ良かった。
いや、しかし問題はない。なぜなら俺は新たな力を手に入れたからだ。
汚れを消す力…今触れて汚れた手を綺麗にしてみよう。
俺は周りの目を気にせず力を使う。
手の表面からベタベタとした感覚が消え、さわやかな心地になっていく。
そこまでは良かったのだが、
俺の手の表面がそのまま空気に溶け込むように、
細かい粒のようになって消滅していることに気が付いた。
だがもう遅い。
そのまま手のひらから腕、そして肩へと、
紙が端から燃えて小さくなるように、俺の全身は消えていった。
…ああ…そうか。
…俺も「汚れ」を生み出していたんだな。
…人間…だもんな…
顔が消え始める頃には、俺はあの景色を想像していた。
そして案の定、また白い空間に俺はいた。
振り向けば女神。
さすがに短時間で三度目ともなると、慣れるというかなんというか…
俺は女神が口を開く前に、矢継ぎ早に話した。
「すみません。俺は死んだんですよね? あなたは俺に力をくれる女神様。『元の状態に戻す力』を俺にくれませんか?」
汚れを消すんじゃなく、つり革などを製造時の状態に戻せればいい。
俺はもう、そう思いついていた。
「えっ…ええ? 随分飲み込みが早いというか…もしかして未来視の力などをお持ちで?」
「いえ、なんとなくそう思っただけです」
「そうですか。ですが話が早くて助かります。どうやら聡明な方のようですね。これは…期待できます」
「あの、力の方は…」
「大丈夫です。今から授けます…」
そして同じように力を得つつ、
俺の意識は遠のいていく。
「えっ!? ちょっとあの、まだ途中で…! せっかくあなたのような――」
俺はまた電車に戻った。
しかし、俺は自分自身が消滅していたことをすっかり忘れていた。
どうやら俺が消滅する前の状態に、今もらったばかりの力が自動ではたらき、
体が元に戻ったらしい。
助かった…と思っていいのだろうか。
テレキネシスの時と違い、俺は本当に死んでいたようだった。
もう三度目だったので、なんとなく勝手に戻る物だと思い込んでいたが、
この力を望まなかったら向こうに行ったままだったのか…
だが、もしそうなっていたと考えても、不思議と恐怖はなかった。
それはそれで、もうつり革に触れずに済むのだから。
とにかく、俺はまた上を見上げると、
三つ目の力をつり革に対して使った。
ガチャッ、コンッ、コン…と音を立ててつり革が床に落ちた。
つり革が組み立てられる前まで戻ってしまっている。
…素材レベルまで戻らなかっただけマシと考えるべきだろうか。
はぁ、と深く溜息をついた。
なんで全部中途半端な力になっているんだ。
俺は無意識に落ちたつり革をテレキネシスで拾おうとしてしまい、
サイコメトリーが自動ではたらいた。
俺はまたショックで倒れた。
……俺は馬鹿なのか。
かなり馬鹿だな。どうして忘れていたんだ。
いや違う。実際はつり革に触れたんじゃない。
あれにはもうそこまで汚れの記憶はない。
先に電車の床に触れてしまっていた。
そのせいで、たくさんの靴に踏みつけられた記憶が俺の中に流れ込んでいた。
…まぁ、そんなことはどうでもいい。
四度目の空間。もう見飽きた。
というか誰か助けてくれ。いやほんとに助けてくれ。
なんなんだ。俺は一体どうしたらいいんだ。
どうしたら俺は汚いつり革に触れなくて済むんだ。
そして再び女神との会話。今度は『電車に固定される力』を願った。
そもそもつり革に触れずに俺が動かなければ良いと思ったからだ。
しかし今回も与えられたのはやはり中途半端な力だった。
電車内で目覚め、力を使うと、俺自身の全てが固定されて体が動かなくなり、
死と同様の状態になってしまった。
流石にこれで嫌というほど理解したが、
毎回力を使おうとすると俺は死ぬ。あるいはほんの一瞬気絶する。
そして、死んでしまっても、気絶したとしても、俺はこの白い空間に来る。
気絶をした場合はすぐに目を覚まし、
死んだ場合は『元の状態に戻す力』が女神から力を授かる際に自動ではたらいて、
中途半端な力を持った上で俺は電車の中に戻る。
『元の状態に戻す力』は周りの環境も元に戻すのか、
バラバラになったはずのつり革も復元されていた。
それでも俺は一縷の望みをかけて、
一度でもいいから、まともに力が行使できることを期待していた。
俺はつり革に触れたくない。
本当にただそれだけなんだ。
五度目は『気持ち悪さを消す力』を願った。
そもそも気持ち悪く感じなければ良いと思ったからだ。
結果は『よごれを消す力』と同じで俺が消えた。馬鹿だ俺は。
六度目は『電車がすぐに目的地に着く力』を願った。
すると電車が認識できないほどの速さで進み、乗客全員が消滅した。
力のせいで、力の発動時だけ、車内の状況が理解できてしまっていた。
流石に俺も焦ったが『元の状態に戻す力』のおかげで、
時間も含めて何事もなかったかのように戻っていた。
なんで毎回この部分だけはまともにはたらくんだよ。
七度目は『つり革状の物を作る能力』を願った。
電車に乗った時に俺用の新品のつり革を作れば良いと考えたのだ。
しかし、物を作る力にもテレキネシスと同様に、
起点となる場所を把握するためのサイコメトリーが追加されており、
つり革をぶら下げる棒に触れた瞬間俺はショックで気絶した。
なんの嫌がらせなんだこれは。
というかここを掴むやつもいることを忘れていた。
何度も何度も死に戻りを繰り返しても、
結局汚いつり革に触れずにどうにかする問題が解決できない。
なんなんだ俺は。つり革に呪われているのか。
つり革を呪っているのは俺なんだが。ふざけるなよ。
もはや俺は意地になっていた。
ひたすら願いを言って死んでを繰り返した。
何度繰り返したのか数えるのはもうやめていた。
つり革のことなんて考えたくないのに、
俺はつり革のことしか考えられなくなっていた。
気が狂いそうになるほど、この無駄な繰り返しを続けた後、
俺はその中で、ついに一つの結論を見出した。
ここまでこのやり取りを何度もしたからこその考えだった。
「俺に与えられた力を全部ちゃんとした物にしてください。」
俺は女神にそう伝えた。
「え? あなたもう力を持っているんですか? ちょっと待ってくださいね…え? は? え、ちょ、ちょっと…なんですかこの力の数は」
「もう疲れちゃったんです…俺は」
「え、ええと…いや、そうですね。分かりました。これも願いとしては一つです。他の世界の女神の力も大体は注がれていますし、あとはほとんど調整だけすればなんとかなるはずです」
「本当ですか?」
「ええ。ですが…これだけの力を使えるようになると、あなたは魔王どころか…」
「とにかく…お願いします」
「は、はい。承りました」
俺に対して何度目か分からない、女神による力の譲渡が行われた。
女神は真剣な表情で俺の力をどうにか調整しているようだった。
しかし今回も同じように意識が遠のいていく。
「えっ? え、ちょ、ちょっと待ってください! そんな! あなたが力の調整中に消えてしまうと――」
ガクンとして俺は元の世界に戻った。
その瞬間気付いた。
……全ての力がなくなっている。
なるほどな。
OSの更新中に中身を引っ掻き回したらそりゃあな。
俺は妙な納得感とともに、少し顔を上げて、
俺の頭のあたりにあるつり革を睨んだ。
結局こいつをどうすることもできなかった。
俺は諦めてぬるりとしたつり革を握る。…くそ、気持ち悪い。
……ああ、そうか。
そうだ。もう電車に乗るのをやめよう。
…というか、今の仕事をやめよう。初めからそうすれば良かったんだ。
俺はこんな小さなことで仕事を辞めてはいけないと思っていた。
そう思い込んでしまっていた。
また新しい仕事を探すのは大変かもしれないけど、
それでも別に見つけりゃいいじゃないか。
仕事をやめたからって、すぐに苦しみで押しつぶされるわけじゃない。
何も今の職場だけが俺の全てじゃないんだ。
俺には俺の合ったやり方があるんだ。
この潔癖とはずっと付き合っていくしかないしな。
俺は手に伝わる気持ち悪さとは別に、
意外なほど、心の中に清々しさすら感じていた。
今日見た物は全て俺の居眠りの産物だったのかもしれない。
ただ、そうだとしたら、立ちながら寝てる時点で、
今の俺の状態はロクなもんじゃなかったということだ。
俺は気付かないうちに、とても疲れていたのかもしれない。
本当は自分を安定させてくれるはずのつり革が、これだけ俺を苦しめたように、
まともに何かに寄りかかることもできず、
自分をちゃんと休ませてやることができていなかったのかもしれないな。
そうだ。仕事をやめて、一旦しばらく休ませてもらおう。
温泉にゆっくりつかりに行くのも、たまには良いんじゃないか。
…ああ、他人がつかった湯もちょっと…いや、だいぶダメだな。
自嘲気味に俺はフッと笑った。
まったく、あれもダメ、これもダメでめんどくせぇな、俺って。
俺は苦笑いをした表情のまま、大きく一つ、溜息をついた。
はぁ……ま、ほどほどにやっていきますか。




