【短編小説】悔しい悪魔
悪魔として生まれたからには、悪いことをしたい。
悪魔なんだから、悪いことをするのは周りも承知である。悪魔の特権といっても過言ではない。
悪魔は街の上を飛び回りながら、どんな悪いことをしてやろうかと考えを巡らせていた。
「ききき。あれはいいな」
まず目をつけたのは、空き地に放置された1台のクラシックカー。タイヤは空気が抜けきり、車体には蔦が複雑に絡まっている。誰にも気かけてもらえないまま、長年この場所に放置されているようだ。こうなってしまうのも無理はない。適切なメンテナンスに、保管場所に、古い車は維持するのが大変である。
獲物を決めると、悪魔はすばやく地上に舞い降り、空き地に火の種を蒔いた。すぐに葉先に着火し、重なり合う植物たちがそれを急いで伝達する。そよ風も相まって、ものの数秒で火は大きくなっていった。
その光景を空から見下ろし、悪魔は満足そうに微笑んだ。
「ききき。これで車は燃えて大火事になる。持ち主の悲しむ顔がはやく見たいな」
次の日、悪魔は弾む心で空き地へと向かった。燃えた車は撤去されたようで、残っていたのはスッキリした敷地と少しの焦げ跡だけだった。
そこへ、ニヤニヤと笑みを浮かべた男が電話片手にやってきた。
悪魔は電柱に身を隠し、耳を澄ました。
『あぁ、大丈夫だ、傷はない。それより火事になってラッキーだった。雑草もボロ車もなくなってキレイさっぱりだ。実のところあの車の処分に困ってたんだ。あれだけボロいと引き取り手もないしな。これは内緒だが、自分で燃やすことも考えていた。大事になれば警察が処理してくれるからな。しかしこんな幸運なことはない。ひひひ』
男は電話を切ると、鼻歌を奏でながら上機嫌で帰っていった。
期待とは違う反応に、悪魔は悔しくなった。悪魔が見たかったのは、人間の嘆き悲しむ顔である。悔しさは悪魔の心を大きく膨らませた。
「次こそは、なんとしてでも人間を泣かせてやる」
今回の敗因は、ボロい車に手をつけたことにあると悪魔は考えた。つまり泣かせるためには、大切にしている物にイタズラを仕掛ければいいわけである。
次に目をつけたのは、商店街をゆくひとりの女性。彼女のカバンからのぞいていたのは大金が入っているであろう、ブランド物の財布だった。
悪魔は気配を消して彼女に近づくと、手際良く財布を抜き取った。
「ききき。なんて分厚い財布だ。無くなったと知れば、嘆き悲しむに違いないききき」
泣き顔を見てやろうと後をつける悪魔のほかに、もうひとつ彼女を追う影があった。
『ちょっとそこのあなた』
『‥‥は、はい。なんでしょう』
『私は警察のものです。監視カメラに、あなたが財布を抜き取っている様子が映っていました。署でお話し聞かせていただけますか』
鋭い眼光のその男は、後退りする彼女の腕を掴んだ。
『そ、そんなことしてないわ!人違いよ!』
腕を振り払った瞬間、女性の手からカバンが離れ、中身が道に散乱した。
出てきたのはふたつ折りの財布、ハンカチ、日傘、化粧ポーチ。警察はカバンをひっくり返して、さらに中身を確認した。ところがどれだけ探しても、盗まれた財布は出てこなかった。
『そんなはずは‥‥。ずっと尾行していたが、どこかに隠している様子もなかった。財布はどこに行ったんだ』
『たしかに道で女性とぶつかりましたが、ただそれだけですよ。財布なんて盗んでません。それより、証拠もないのに失礼ではありませんか?名誉なんとかで訴えますよ』
確実な証拠がないとなると、警察は彼女を解放するほかなかった。
彼女を捕まえた男は最後まで腑に落ちない様子だったが、不思議に思っているのは彼女も同じである。
盗んだはずの財布がタイミングよく消えてくれたのだから。彼女は怪しまれないよう、嬉しさ溢れる口元を手で隠した。
『こーんなことがあるのね。なんてラッキーなの』
またまた悪魔は悔しくなった。こうなれば最終手段である。体の痛みは心の痛み。身体的に傷を負わせることで、人間を悲しませようと考えた。そこで悪魔は、通行人が転ぶように、平らな道に段差をつくった。
薬局から出てきた男性は段差の方へ向かって真っ直ぐ進み、仕掛けの場所で足を踏み外した。しかしそれだけではなかった。身体のバランスを崩し、そのまま道路に飛び出してしまったのだ。信号は青。複数のクラクションが鳴り響き、4車線の真ん中に立つ男性めがけて、大型トラックが突っ込んだ。
少しやりすぎたかと反省する悪魔だったが、一方で、人間の悲しむ顔を拝める絶好のチャンスである。
悪魔は、葬式会場の隅でヒソヒソと小声で会話するふたりの足元に近づいた。
『まぁ、あの人も私たちなんかと暮らすより、空の上であの女と一緒にいる方が幸せよ』
『こんなこと言っちゃ悪いが、介護のこと考えずに済んで、なんだか心が軽くなったな』
ふたりは男性の娘と息子らしく、父親の死を悲しむどころか、重荷がなくなったように安堵の表情を浮かべていたのだ。
こうなるといよいよ、悪魔は自分の悪魔としての素質を疑うしかなかった。ここまでの出来事を振り返ってみると、悪魔はむしろ良い行いをしてきた。もしかしたら自分には、天使としての素質があるのかもしれない。
それから悪魔は、悪魔の見た目のまま、天使のように良い行いをして生きてみようと考えた。
空を飛んでいると、マンションの窓から見えたのは、部屋で気持ちよさそうに眠る赤ちゃんの姿。
悪魔はベランダに降りると窓ガラスを通り抜け、部屋へ侵入した。悪さをするためではない。
赤ちゃんに毛布をかけてあげようと考えたのだ。体が冷えて風邪をひいたら大変である。
悪魔は赤ちゃんをふわふわの毛布で包み、部屋を出た。
するとすぐに母親がやってきて、包まった赤ちゃんを見つけ、あわてて毛布を引き離した。
『なんてこと!こんな暑い日に毛布なんて包まっていたら熱中症で死んでしまうわ!まったくどこから引っ張り出してきたんだか』
悪魔は残念な気持ちになった。良いことをしたつもりが、これまた自分の思いとは反対になってしまった。
それでも悪魔は諦めなかった。困っている人が多くいる場所を考え、街の大きな病院へと向かった。
悪魔は廊下を飛びながら、助けが必要な人を探した。
『あら、悪魔さん』
柔らかい声がして振り返ると、立っていたのは小学生くらいの少女だった。
「君‥‥僕のことが見えるのかい」
『えぇ。わたし昔から天使と悪魔が見えるのよ。あなたは、悪魔さんね』
「そうだよ。でも僕はね、良いことがしたいんだ。誰かを助けたい。そうだ、君、困っていることはない?僕が解決してあげるよ」
『困っていること‥‥』
そう囁くと、少女はある場所を指差しながら続けた。
『あそこに薬があるの。痛み止めの薬よ。でも1日の服用量が決まっているから、痛くても我慢することもあるの。今日は特に痛みが強くて、わたし、薬が欲しい』
「そんなのおやすいごようだよ!僕がとってきてあげる」
『ほんとうに?』
「うん!まかせて!」
悪魔は嬉しかった。生まれて初めて誰かの役に立てるのだ。
少女から教えてもらった薬を見つけると、悪魔は急いで届けに向かった。
広い病室にはひとつだけベッドがあり、少女は横になって待っていた。
『とってきてくれたの?』
「うん!合ってるか分からないけど。間違っていてもまた僕が取りに行くから安心して!」
『ありがとう、悪魔さん。あなたのおかげでわたし楽になれるわ』
少女は2錠の薬を水で流し込んだ。
やがて眠気がやってきたのかゆっくりと瞼を閉じ、悪魔は気持ちよさそうに枕に沈んでいく少女を眺めていた。
夕方、病室にやってきた研修医が少女の異変に気づき、急いで呼吸を確認した。しかし彼女は、もう息をしていなかった。
悪魔は泣き喚く両親を見て、自分の犯した罪の重さを知った。
それからは病院を離れ、また街を彷徨いながら、悪魔にもなれず天使にもなれず、悪魔は静かにその街を去っていった。