第六話 鍋を守る拳
月はちぎれた布のように雲間を漂い、梁山泊の荒野に長い影を落としていた。
夜半の飯屋は、残った薪がぱちぱちと音を立てるだけで静かだ。
だが静けさの外側で、重い靴音が土を踏みしだいていた。
「今日こそ取り立てるぞ。あの小屋に銅貨がなくとも、鍋と包丁は値になる」
武具も揃わぬままに――役人くずれの衆が、闇に紛れて十余人。
手にした鋤や棍棒が月明りを鈍く反射した。
店内では、魯智深が新品の木椀を撫で回している。
「この椀、俺専用か? ひと目でよそらいと分かるな」
「昼、三椀食べた人が言う?」清蘭が眉をひそめた。
魯智深は豪快に笑い、拳で椀を軽く叩く。
「椀が壊れたら新しいのを作る! 腹を壊すより安いものよ」
笑い声に合わせて、外の土壁がぐらり、と揺れる。
李翔が箸を止めた。
「風じゃない。凌凰、火を落とすな。周文、裏口を固めて」
凌凰は竈の灯を半分に絞り、周文は帳面を閉じて刀子を帯びる。
翔は暖簾を払い上げて戸口へ立った。
「ここは飯屋だ。腹を空かせたなら椀で語れ」
返事は石礫。
戸板を打ち、床板で割れる。
魯智深が立ち上がり、額に血が浮かぶのも構わず門口へ歩を進める。
「店主、俺が行こう」
「殺めはするなよ」
「怪我で済ませる。鍋を守る拳、その程度で足りるだろう?」
翔は魯智深の背に小さな瓢箪を投げた。
「中身は塩水。喉を潤してから頼む」
魯智深は一気に呑み、空の瓢箪を月にかざす。
「天よ、とっくりと見ておれ!」
戸板を蹴破り飛び出した僧衣は、闇夜に翻る黒旗のごとし。
襲い来る棍棒を素手で払い、片腕で二人を薙ぎ払った。
土煙の中、呻き声が重なる。
凌凰は弓を構え、足を狙って矢を放つ。
金属音が響き、敵の鋤が弧を描いて飛んだ。
矢羽根が月に揺れた瞬間、魯智深の拳が最後の賊の腹へめり込む。
「ぐはっ……銭も鍋も、要らねえよ……」
全てが土に伏したところで、魯智深は一歩下がり手を払う。
「もう来るな。腹が減ったら戸を叩け。椀は出してやる」
返事はない。恐怖に顔を歪めた賊たちは、夜の闇へ蜘蛛の子のように散った。
魯智深が大きく息を吐いて振り返ると、翔が湯を差し出した。
「拳が熱いと湯も甘くなる。飲め」
「ほう――湯が甘いとは洒落たことを言う」
周文が割れた戸板を調べる。
「修理代は……これくらいか」
「店主の椀より安いぞ?」清蘭が笑い、凌凰も肩を竦めた。
翔は懐から墨壺を出し、暖簾の傍らに新たな一筆を加えた。
椀は剣より強し
叩くより 叩け
乾いた墨の匂いが夜気に溶け、梁山泊の空に新しい灯が点った。
魯智深は拳を開き、皿に残った魯肉を摘まむ。
「腹と店は守った。今夜も一椀、頼めるか?」
翔は袖をまくり上げ、竈に再び火を起こす。
「看板に偽りはない。黙っていても、飯は出す」
夜が明けるころには賊の噂が“豪傑”の逸話に化け、荒野のあちこちへ転がっていくだろう。
そして次に戸を叩くのが、味に誘われた者か、力を求める者か――それはまだ、誰も知らない。
小屋を襲ったのはただの賊。しかし〝鍋を守る〟という目的が、花和尚の拳に新しい意味を与えました。
この一夜は荒野に残る火花。噂は噂を呼び、梁山泊の灯は遠くの心にも届き始めます。
次回は、そんな噂を追ってやって来る“旅の剣士”。彼の背負う因縁と前日譚をお届けする予定です。どうぞお楽しみに。