第七十四話 香稽古の渡し
雪は止み、川は澄んだ。
門外倉の前に、腹の浅い小舟がそっと寄る。
舳で小さな鍋を抱えた若者が、香台を焚かずに湯を回していた。
沈涯である。
黎周が前に立ち、波星を掲げる。
沈涯はそれを押しやるようにせず、ただ鍋の湯気を門の風へ晒した。
黒実は塩で軽く乾かし、蜂蜜は爪の先ほど、生姜を薄く。
香は刺さず、喉の奥で丸く灯る。
李翔は橋の中央で“香馴がゆ”を一椀よそい、矢縄の箱へ乗せて滑らせた。
沈涯は香の鍋を同じ箱に載せ、静かに押し戻す。
箱は川面を滑り、湯気の尾が重なる。
桂花の糸が上、黒実の丸が下。
香と粥が、同じ高さで合った。
楊志は竹札台帳に“香稽古:香台を使わず、鍋で渡す”と記し、清蘭は刻湯の札を薄く香押しした。
魯智深は丸太に腰をかけ、鼻で笑う。
「焚かずに届くなら良い匂いだ」
試しの終わり、沈涯は小袋を差し出した。
焙り時間を半刻短くした黒実と、塩の粉、蜜の粒。
李翔は頷き、門外倉の“香星”の棚に“南の鍋”と墨で書いて置いた。
「鍋で読める香は椀で返せる」
最後に、沈涯は一本の棒を箱に残した。
端の欠けた香墨。
彼は首を振って微笑む。
偽るためにではなく、香を封じるための印。
箱が戻ると、李翔は香墨を返り蜜で包み、梁に吊るす。
時間が経つほど甘さが深まり、偽りの角は消えた。
鼓は二短一長。
灯は五呼吸。
門の呼吸に、南の鍋の湯気がひと息で重なった。




