第六十三話 香幕、井戸を守る
夜半、南からの風が一段強くなった。
迎客門の上空に、桂花とは違う鋭い香が糸のように伸びる。
鼻の奥で短く刺さり、喉を乾かせる“胆香”。香台を強く焚いた匂いだ。
水房隊の若い舟子が井戸で咳こみ、桶の水面に細い油の輪が出た。
清蘭が眉を寄せる。
「香が水に降りてる。井戸が曇る」
李翔は鍋の火を弱め、生姜と陳皮を増した“鼻通粥”を仕立てた。
湯気が細く、しかし真っ直ぐ鼻腔を抜けるように。
陳石が笛で合図。
炭房隊が木炭と砂と川石で三層の濾し箱をこしらえ、水房隊が井戸から水を汲んで通す。
娘娘は蓮の糸で結んだ紙片を鍋の湯で揺らし、“蓮糸試湯”で香の濃さを測った。
「紙が薄紅なら安全、褐が出たら止める」
魯智深は丸太に布を張り、酒粕と桂花蜜で湿らせた“香幕”を門の内外に立てる。
武松は虎皮の裾を締め、香幕の合間に空気の通り道を作った。
「鼻を殺さず匂いを割る。幕は押さえず、抱かせろ」
そのとき、石橋の外で灯が一つ揺れた。
舟の影。
港筋の黎周が一人で舷に立ち、香台を伏せている。
「焚けと命じる声はあったさ。だが嗅いだのは俺の鼻だ。腹の灯を消す香は商いをも消す」
彼は紙に包んだ砂を投げてきた。
「香台の下に撒け。火が香を焦がす癖を抑える“沈砂”だ」
清蘭は沈砂を香幕の根に薄く伸ばし、炭房隊は濾し箱の木炭を細かく砕いて層を増した。
張順は井戸の吐き口に布を重ね、鼻通粥の湯気を布越しに通して水気へ桂花の素を混ぜる。
「水が湯気を覚えれば、香は強くても折れる」
娘娘が蓮糸試湯を傾ける。
紙片は薄紅。
喉の乾きが引き、水の輪は消えた。
翔は鼻通粥を武松へ渡し、門の者にも配る。
生姜の熱が鼻を開き、陳皮の細い苦が香を丸くした。
黎周は舟の上で一椀をあおり、香台の火を完全に落とした。
「鼻で勝とうとするなら、腹で返すことを覚えたほうが速い」
陳石は矢倉から短く笛を鳴らし、香幕の間を風が素直に通った。
夜が更けるにつれ、胆香は細り、井戸は静かに呼吸を取り戻した。
楊志は帳面に記す。
“香幕:酒粕一・桂花一、幕間二。濾し箱:木炭三層・砂二層・川石一。沈砂:香台下”
朱で囲い、星札の頁へ綴じ足す。
湯気は金色を取り戻し、鼻も腹も同じ高さで灯った。
闇に残った香の尾は短く、川の息は長い。




