第五話 魯肉飯、運命の一椀
荒野に立つ小屋の戸口で、巨漢が倒れ込んだ。
店主の李翔は脚絆を蹴り上げて飛び出し、肩に掛かった柳を外して男を仰向けにする。
「息はある。凌凰、手を貸してくれ!」
「任せろ!」
細身の凌凰が脇を支え、周文が湯を汲みに走る。
皿洗いの清蘭は火床へ薪をくべ、明るい炎を起こした。
巨漢の胸が上下し、荒い息に混じって掠れた声が漏れる。
「……肉……くれ……」
翔は額の血を拭いながら指示を飛ばした。
「塩、酒、それと五香粉! 豚バラを全部持ってきて」
竈に油を引くと、切り分けた肉が弾け、甘い醤の香りが漂う。
氷糖を砕き、紹興酒を注ぎ、弱火で煮込む。
「箸で崩れるまで――それが合図だ」
凌凰が眉を寄せる。
「こんな荒武者に上物の肉を全部か? 店が傾くぞ」
「食わせねぇと命が持たない。この梁山泊《りょうざんぱく》は、腹を空かせた者を追い返さない」
炊き上がった白飯を木碗に盛り、肉をたっぷり――最後に半熟卵を割り落とす。
卵黄がとろりと流れた瞬間、巨漢のまぶたが震えた。
「……ここは……どこだ」
「梁山泊の飯屋さ。名は?」
「魯智深……匂いに釣られて来たら、こうなった」
凌凰が唸る。
「柳を根ごと抜いたって噂の花和尚――あんただな」
魯智深は苦笑し、腹を押さえた。
「名より飯だ。一椀頼む」
翔は言葉なく椀を差し出した。
魯智深は箸も使わず豪快に口へ運ぶ。
甘辛い煮汁が舌に広がり、八角と桂皮が鼻を抜けた。
二口、三口――喉が鳴るたび胸に熱がこもり、涙が頬を伝う。
凌凰が小声で驚く。
「泣きながら食う奴なんて初めて見た」
「涙は調味料だよ」翔は湯を差し出した。
椀を空にした魯智深は深く頭を垂れる。
「命の恩に報いる言葉が見つからん。せめて名を――」
「その椀に名をもらうさ」翔が笑う。
「魯肉飯――梁山泊の看板料理だ」
夜が更け、薪が静かに赤く燃える。
魯智深は拳を膝に置き、翔に向かって合掌した。
「この拳、もう人をいたずらに傷つけたくはない。だが守るべき者がいれば振るう。それで良いか?」
「飯屋に喧嘩は要らない。でも梁山泊には、腹だけでなく背中も預け合える仲間が要る」
周文が帳面を開き、筆を走らせる。
「では拙者、この方の食い扶持を記しておきます」
清蘭がくすりと笑う。
「一日十椀くらい必要かしら?」
魯智深は豪快に笑い、拳で胸を叩いた。
「俺が守り、俺が食らう! 稼ぎは――任せた!」
翔は暖簾を掲げ直す。
白地に新たな墨が踊った。
梁山泊飯屋
魯肉飯 一椀二十文
夜風に揺れる暖簾の向こうで、荒野の静けさが少しだけ温かくなった。
香りで始まり、涙で終わった一椀。
魯智深が梁山泊に加わり、飯屋は「腹を満たす場」から「魂を鍛える炉」へと変わりはじめます。