第五十四話 弓声、清風寨に立つ
冬を迎える前の山気は澄み切り、雲より高い清風寨の垣には霜がまだ降りていない。
山路を吹き抜ける風が竹林をくぐり、遠く麓の畑へ抜けるたび、乾いた葉が弓弦のように鳴った。
花栄はその音へ耳を澄ませ、指先で弓の腹を撫でた。
桑木を削り込んだ六尺二寸、漆を薄く塗り重ねただけの素朴な長弓。
けれど一度引けば、冬雀の羽ばたきより静かに矢が走ると評判だ。
寨の広場では収穫祭が開かれ、鍋に入れた黄粱粥が香りを揺らしている。
蕪と干し葱、米を炒った粉を骨湯で溶いただけの素朴な味だが、澄んだ風にはよく映える。
酒粕を一滴垂らしただけで湯気が甘くなり、山里の子どもたちは椀を抱えたまま弓比べを見物した。
「花頭が的を射抜けば雪は降らないってばあちゃんが言った」
子どもの囁きに、花栄は笑い、矢羽を風へかざした。
尾根を越える寒気が、羽の先を微かに震わせる。
南南西、風速は笹竹が擦るほど。
雑兵が敷いた丸太台から、直径一尺の杉的まで六十歩。
花栄は弦をゆるりと引き、矢じりを僅かに右へ振った。
放たれた矢は風を噛み、的の中心へ吸い込まれるように突き立った。
音は薄く、的布が震えて止んだあと、見物の歓声が遅れて弾けた。
「清風寨一番!」
太鼓が鳴り、子どもたちは椀を高く掲げる。
黄粱粥の湯気が風に乗り、矢羽の油と混ざって淡い甘さを運んだ。
ところが――
役所から派遣された巡検官の一団が馬を連ねて現れ、広場の隅へ金屏の的を据えさせた。
巡検の従者が錫をかぶせた矢筒を開き、赤羽を抜きながら言う。
「腕自慢なら官の的も射てみよ。中てられれば褒を贈るが、外せば褒美は没収だ」
広場の空気が固まる。
杉的と違い、金屏は風を弾き返す。矢はわずかな揺れにも滑り、中心を射抜くのは難しい。
花栄の目に、巡検官の口元が薄く歪むのが映った。
褒を与えると言いながら、外させて罰を取る算段だ。
子どもが握る椀は冷え、黄粱粥の膜が固まり始める。
花栄は矢を一本だけ選び、油を薄く拭った。
「狙いは褒美より腹の灯――粥を煮立て直す火だ」
小さく呟き、弦を引く。
風が笹を鳴らす。霞のような揺れが金屏の縁を覆い、矢じりが迷い込む隙を作った。
花栄は息を止めず、吐き続ける。
矢が放たれ、風を切る音が朱鷺の羽音のように鋭かった。
矢じりは金を裂き、昼の月光をひと瞬き弾いて、中心の赤点を貫いた。
太鼓が鳴らぬうちに湯気が揺れ、黄粱粥の膜が再び解ける。
子どもたちは歓声を上げ、巡検官は顎を引きつらせたまま褒を出さずに引き揚げた。
花栄は残された錫矢を拾い、鍋の火へかざした。
金と錫が熱で甘く軋み、粥の香りと混ざり合う。
「腹を冷やす矢なら要らぬが、火を呼ぶ矢なら貰っておこう」
夜。
清風寨の外れ、山道を下る巡検の列を遠目に見送りながら、花栄は矢羽を束ねて背に差した。
褒美は失われ、官の矢は取り上げを告げる文になると噂が回る。
弓で生きる者にとって、的を射抜く腕が咎となる日が来る。
風は粥より薄い甘さを残し、北の空で桂花の匂いが瞬いた。
灯の下で腹が温まる砦がある――まだ見ぬ椀の湯気が、弓手の肩を静かに導いていた。
花栄の矢は金屏を貫きましたが、その腕前は官に疎まれ、次話で投獄と逃亡の火種をまきます。




