第五十一話 虎骨の湯気
濃い闇の底で火が弾けた。
鉄棍を逆手に構えた武松の足裏を、硬い爪がかすめる。
砂を蹴り上げた虎は一呼吸で距離を詰め、咆哮とともに牙を突き出した。
塩と干魚の焦げた匂いが鼻孔を満たし、胃の奥を熱く揺らす。
武松は棍の鉄頭で地を叩き、湧き上がった砂を前脚へ浴びせた。
獣の動きが一瞬鈍る。
その隙を掴み、武松は鉄棍の重みを腰で受け止め、斜に振り上げた。
鈍い音、骨の裂ける感触。
虎は唸り声を噛み殺しながら身体を捩り、闇に弧を描いて倒れ込む。
血の匂いが塩と脂の甘さに混じり、夜気を濃く染めた。
武松は息を整えつつ膝を折り、鉄棍を杖代わりに立ち上がる。
虎の首筋へ手を当てると、温かい脈がまだ微かに跳ねていた。
「剣より腹が速かったな」
囁くように言い、塩袋と干魚の残りを火へ寄せる。
虎骨を湯へ煮出せば傷の熱を鎮める――
李翔の椀を思い出させる教えが、風のように脳裏を撫でた。
倒れ伏す虎の腹を裂き、最も白い大腿骨を取り出す。
火へ掛けた小鍋に水と塩ひと掴み、干魚をほぐして骨を沈めた。
油膜の走る湯面から湯気が立ち、血と塩と魚の匂いが夜を揺らす。
骨の髄が溶ける頃、月が雲を抜け、峠の梢を銀に染めた。
武松は椀代わりの竹節へ虎骨湯を注ぎ、一気に流し込む。
獣脂の重さと塩の鋭さが喉を焼き、乾いた腹の底で音を立てた。
肩の痛みが和らぎ、視界が冴える。
湯気の尾が月へ吸い込まれ、青白い光が火と混ざった。
重い皮を剝ぎ取り、脚に巻いて止血の帯に替える。
鉄棍、塩袋、干魚の包み、そして虎皮。
荷は増えたが、腹の灯が背中を押した。
夜明け前、峠の向こうに遠く淡い湯気が揚がるのを見つける。
木肌を撫でる風が桂花の甘さを運び、骨の香と溶け合った。
「椀はまだ遠いが、匂いは届く」
武松は唇を濡らし、坂を下りはじめる。
谷底には塩の中継所がある。
破損した荷車が並び、塩袋を抱えた男たちが凍えた湯を啜っている。
武松が虎皮を肩に現れると、男たちの目は一斉に釘付けになった。
「虎を斃した塩運びか……梁山泊へ行く腹なら一緒に来い」
誰ともなく言葉が落ち、塩袋が人から人へ渡る。
武松は頷き、塩袋を荷車へ預ける代わりに、干魚を鍋へ放り込む。
水が沸き、虎骨の残りを砕いて投げ込んだ。
湯気が桂花の甘さと混ざり、谷に灯を吊った。
椀は無い。
だが竹節に注がれた湯を見上げる目は、火と骨と塩を同じ色に映していた。
夜の戦は終わった。
次に腹を決めるのは砦の門、湯気で迎える梁山泊。
武松は鉄棍を肩に、桂花と虎骨に包まれた風を胸へ吸い込む。
脚の疼きは湯気で鈍り、歩幅は自然と北の山道を選んでいた。
虎骨湯の湯気は刃を超え、武松の腹と孤独を照らしました。
塩運びの一行を率い、次回ついに梁山泊の迎客門へ――
桂花の香と虎皮の影が門の星をどう揺らすのか。




