第五十話 虎を待つ腹鼓
冬へかかる南道は乾いた草の匂いを巻き上げ、土埃が日の光を鈍く濁らせていた。
武松は肩布に縛った塩袋を背に、ひとつずつ足跡を刻む。
五日分の干し肉は昨夜で尽き、水筒の底に残るのは泥の味がする一口きり。
それでも腰に下げた鉄棍だけが、体温を逃がさず掌へ重みを伝えてくる。
正午過ぎ、一本道の向こうに茶屋の朽ちた屋根が見えた。
掲げられた木札には「酒一椀|いちわん《》 銭二文」と煤で書かれている。
武松は喉を鳴らしながら戸をくぐった。
中では老主人が小鍋で薄い酒粥をかき混ぜ、
窓から吹き込む砂風に火を守るよう身を丸めている。
「虎が出るぞ、兄弟」
老主人は椀に酒粥をすくいながら、指で北の尾根を示した。
「景陽岡の坂で旅人が三人食われた。塩を運ぶなら今夜のうちに峠を越えろ」
武松は鉄棍を壁際に立てかけ、椀を受け取った。
酒粥は米と粟を湯で煮崩し、榧の実を一粒浮かせただけの薄味。
それでも酒粕が舌に触れた途端、肩へ貼りついた塩袋の重みがほぐれる。
「虎より先に腹が鳴る。峠に登る前にもう一椀」
武松は銭袋を開いたが、塩を買った路銀で残るのは三文。
躊躇う彼の前に、老主人は干し魚を刻んだ小皿を置いた。
「話を聞かせてくれりゃ足りる。虎を斃す気か、それとも逃げる気か」
武松は酒粥を啜り、微かに笑った。
「腹が決める。虎を見て椀を思い出したら逃げるかもしれん」
黄昏、茶屋を出た武松は、景陽岡へ続く石段に影を伸ばした。
風は土と枯草の匂いの奥に、血と鉄にも似た鋭い獣臭を含んでいる。
月がまだ昇らぬ薄闇で、坂の上へ細い煙がひと筋。
炊ぎの香りはしない。
「誰かが火を焚いている、腹ではなく刃のために」
石段を登り切ると、道端に折れた笹竹が積まれ、その向こうで火が青く揺れていた。
火の近くに転がる塩袋は破れており、砂に混じった白粒が夜露で濡れ光る。
鉄棍を握る武松の掌が汗でぬめり、胃の底が鳴った。
虎が出る、と噂された坂。
しかし火の周りには人の靴跡しかない。
一瞬、風は止まり、背後の闇で硬い息が吹かれる。
武松は振り返らず、火の前に腰を下ろした。
破れ袋から塩を一掬い。
茶屋で貰った干し魚の切れ端を懐から取り出し、塩を擦り込む。
「虎でも賊でも、腹を呼ぶ匂いに弱いのは同じだ」
火にかざした干魚は脂を溶かし、夜気を甘く焦がす。
闇が裂け、金色の目が火を映す。
草を踏む重い音。
武松は鉄棍を立て、干魚を火から外し膝上に置いた。
「腹が選べ。椀はないが塩と魚はある」
獣臭と鉄棍の油が交わり、火は揺れる。
次の瞬間、獣影が飛び出した。
しかし跳躍は短く、塩の焦げた匂いに鼻を鳴らし、獣は岩陰へ退いた。
武松は鉄棍で地面を打ち、火を散らす。
腹と刃の分水嶺。
獣が去った闇に、残り火の湯気が淡く立ち上がる。
桂花も酒粕も無い。
それでも塩と脂の湯気は人の腹を満たし、獣の牙を鈍らせた。
武松は干魚を噛み、小さく笑った。
「虎を待たせたまま腹を満たせば、椀が無くても灯は立つ」
星がひとつ昇り、坂の上の湯気を薄く照らす。
遠い北の空に、椀の灯を掲げる砦があることを、まだ彼は知らない。
しかし腹が鳴るたび、その灯に向かう道を足が覚え始めていた。
酒粥と塩干魚――椀なき夜食が虎の気配を遠ざけ、武松は腹と刃の境で踏みとどまりました。
次回、景陽岡での決着と塩道の試練を経て、彼はついに迎客門に辿り着きます。




