第三十九話 白湯気の門、青面獣の選択
薄雲を透かした月が稜線へ沈むころ、山道にひとつの影が進んでいた。
青面獣――楊志。
剣帯の結び目は緩み、鞘に映る顔は砂と汗でまだらに汚れている。
しかし瞳だけは夜気を裂く氷の色を保ったままだ。
前方に木槌の間延びした音が響く。
林を抜けると、丸太柱が組まれた門が月光に浮かんだ。
柱の根元に竈が埋め込まれ、白い湯気が一本──真直ぐ空へ。
門の横板に炭墨で掟が書かれている。
“腹礼一椀 竹札一名”
門は閉じていない。
だが湯気を跨いで通るには、見張り台に立つ槍と弓の視線を受けねばならない。
松明を掲げるのは門番長・陳石。
梁山泊の者たちは、この夜に未知の旅人が現れるとは知る由もない。
楊志は足を止め、喉の奥で粥の甘さを反芻する。
酒粥の余熱はもう残っていない。
腹へ残るのは空洞と剣の重みだけ。
門下で湯気をかき混ぜる杓の動きが止まり、李翔が顔を上げた。
「旅の方、《迎客粥》を一椀いかがか」
声は柔らかいが、背後には丸太を担いだ魯智深が立つ。
史進の弓は弦を張ったまま旗影に隠れ、娘娘は鍋に蜂蜜を一滴。
楊志は剣柄を軽く握り、湯気を見つめた。
梅と酒粕の甘酸っぱさが鼻腔をくすぐり、塩と骨の匂いが薄くその奥を満たす。
剣を抜くか、椀を取るか。
選ぶ時間は一呼吸で足りる。
乾いた唇が湯気を求め、鞘にかけた手が下りた。
「一椀、もらおう」
翔は木椀に粥を注ぎ、山査子を一片浮かべる。
楊志が受け取ると、指が熱で震え、湯面がわずかに揺れた。
一口。
骨の甘みが舌へ染み、二口目で梅の酸が喉に落ちる。
腹が鳴り、膝の力が抜けそうになる。
周文が竹札を差し出す。
「名を記せば、椀は返さなくていい」
楊志は剣先で砂を掻き、膝を突いて竹札へ自分の名を刻んだ。
“楊志 一名”
書き終えると、剣を地面に伏せ、椀を空にして深く頭を下げた。
門上で弦が緩む音。
史進が旗を揺らし、魯智深が丸太を肩から降ろす。
娘娘が新しい湯を注ぎ足し、湯気はもう一本高く昇った。
翔は楊志へ手を差し出す。
「剣の重みより、椀が重かったか?」
楊志はわずかに笑い、差し出された手を取った。
「椀のほうが喉へ響いた。今はそれで十分だ」
門の奥から清蘭が走り寄り、迎客門の暖簾を揺らして言う。
「椀で腹を満たしたら、名前だけでなく役目も書いてってもらうわよ」
楊志は竹札を握り、夜明け前の空を見上げる。
剣の蒼が、湯気に溶けて薄く霞んでいった。
剣を伏せ、椀を選んだ青面獣。
梁山泊の迎客門が初めて呑み込んだ旅人は、一椀の粥で剣より深く腹を満たしました。
次回からは1日1話投稿になりますが楊志の新しい役目探しと、砦内で膨らむ椀屋市場の拡張騒動を描きます。




