第三十八話 砂に捨てた宝、粥を抱く剣
夜明け前、河原を包んでいた霧は熱に変わり、地面から白く立ちのぼっていた。
楊志|ようしは剣を膝に、眠らないまま夜をやり過ごす。
しかし、乾いた喉に残るのは砂と鉄の味だけ。
木箱に縛り付けた縄は夜露を吸って重く、兵たちの顔色は灰のようだった。
老兵は水袋の口に舌を当てて絞るが、一滴さえ落ちない。
「あと半刻で町だ」
楊志はそう告げ、箱を載せた車を押す。
けれど車輪は砂に沈み、乾いた河砂が車軸を削って軋む。
さらに西風が吹きはじめた。
風に乗って塩の匂いがうっすら漂う。
海の気配ではない。
聞き慣れぬ土っぽい塩味――山賊が塩袋を割ったとき、遠くへ飛ぶ粉の匂いに似ている。
老兵が槍柄で砂を払いながら低く唸る。
「塩風だ。川向こうに盗人が潜む」
続けて若い兵が水袋を放り投げた。
「飲み水もねえのに宝守りか! 青面獣の剣が金粒に見えるか!」
空気が裂けるように荒んだ声。
剣を抜けば隊列が壊れるのがわかる。
楊志は柄にかけた手をそっと下ろし、箱を降ろさせた。
「鎧を捨てろ。布の方が早く走れる」
命令すると、兵たちは肩布を縛り直し始める。
老兵が鼻で笑う。
「逃げ足は早くても追っ手を呼ぶぞ」
楊志は箱の蓋に手を添え、朱の銘板を撫でた。
「箱を失えば夜露さえ飲めん身分に落ちる――選べ」
沈黙が砂を吸う。
若い兵が最初に剣を手放し、次々に鎧と駄荷が地面に落ちた。
最後に老兵が短く舌打ちをして槍を捨てる。
「剥がれた刃は錆ない、か」
楊志は自分の青龍剣を抜き、鞘を握ったまま刀身を裸にする。
朝陽が刃に映り、蒼い顔をさらに青く染める。
「宝は置いていく」
そう言い切った瞬間、川下の茂みから笛の音が吹き上がる。
昨日の唄と同じ節。
農夫姿の男たちが藁蓑を脱ぎ捨て、布頭巾の下から白刃を覗かせた。
だが兵たちはすでに武具を棄て、砂を蹴って散開する。
盗人は肩すかしを食ったかのように唖然。
楊志は刃をわずかに振るい、砂煙だけを切った。
「宝が欲しければくれてやる。ただし生きて運べるならな」
盗人の列がざわめき、背の高い男が拳を振り上げる。
「剣一本で三十六箱守れるか!」
楊志は首を振り、青龍剣を鞘に納めた。
「守るのは剣じゃない。こいつだ」
腰から湯筒を外し、蓋を開けると湯気がほのかに立った。
護送前夜、粥を分けてくれた茶屋の老爺が忍ばせた酒粥。
「これを飲み干す腹で剣を抜けるか試すんだな」
盗人たちは顔を見合わせ、刃より喉を鳴らす。
その隙に兵たちは散り散りに走り出す。
背へ飛び込んできた老兵が楊志を押す。
「行け! 箱はいずれ誰かの首を斬る。剣だけあれば山で生きられる!」
楊志は川縁を駆け降りた。盗人と兵の怒号が裂ける。
剣と空腹だけが脇腹で鳴る。
川面を渡る視界に、遠く白い湯気が真直ぐ上っていた。
米粒を噛み潰す。酒粕の甘さが舌に残る。
「――寄るか」
湯気の尾を目指し、夜明け色の山道へ脚を踏み入れた。
炎天下で守り切れなかった生辰綱。
宝を捨て、兵を逃がし、楊志は剣とわずかな粥の余熱だけを頼りに北の山へ向かいます。
次回、凍える雪道で白い湯気を辿り、彼は見知らぬ門へ




