第三十七話 灼ける道、生辰綱を押して
夏の陽は石畳を焼き、立ち上る蜃気が都の楼閣を歪めていた。
楊志は薄い麻衣一枚で汗を吸わせ、肩に革紐を交差させて木箱を担いだ。
箱の銘板には朱で「生辰綱」と彫られている。
王侯の誕辰を祝う宝飾――玉、真珠、異国の香料、そして金塊。
失職を告げられたその夜、楊志は「護送の副将として名誉回復の機会をやる」と呼び戻された。
剣より重い木箱は三十六。
だが副将へ与えられた兵は、半数が徴募したばかりの素人だった。
無理もない。
炎天下を行くこの仕事を請ける者などほとんどいない。
昼、舗装もない街道は焼けた鉄板と化し、足首まで跳ねる土埃が喉を削る。
夜、涼を求めて止まれば蚊と砂賊が群れ寄る。
──だが引き受けた。
楊志は隊列の先頭に立ち、青龍剣で馬蹄の音を計る。
十刻歩き、二刻休むを守れば、兵はまだ動いた。
しかし木箱を積んだ車の轍は日ごと深く、車輪が砂に埋もれるたび兵が息を荒げる。
五日目の真昼。
焼けた風が馬の鼻を乾かし、荷車はついに動かなくなった。
副将の肩書を妬む老兵が口火を切る。
「青面獣さま。剣を振るうより木箱を軽くしちゃどうだ」
楊志は足を止め、剣の柄を握り直す。
「宝飾一粒無くせば首が飛ぶ。軽口で済まんぞ」
老兵は不敵に笑い、仲間へ目配せする。
列の後方で水袋を抱える若い兵が呻く。
「水が……残り一皮だ」
焦げた空気の中で、剣の重みが腕に嫌な汗をにじませた。
楊志は短く鼻を鳴らし、手元の水を半分だけ口に含む。
残り半分を剣先で切り裂いた布へ落とし、木箱の縄を締め直した。
「水が尽きても、箱は手放すな。
箱を失えば夜露さえ飲めん身分に落ちる」
誰も返事をせず、炎天下の行軍は再開した。
だが夜営の火を囲んだとき、兵たちの視線は剣ではなく木箱へ向いた。
月に照らされる朱の銘板は、憎しみさえ帯びている。
翌朝。
河原で水を汲もうとした時、楊志の耳に奇妙な唄が入った。
草を束ねた筏を漕ぎ、農夫風情の男たちが口笛で拍を取る。
“ 暑さを食うなら 梅干一個
喉を洗うなら 椀の粥 ”
素人にはおかしな節だが、剣を磨いた耳には乱れのない歩調が聞こえる。
唄は兵を眠気に誘い、匂わぬ風が木箱へ近づく隙を作る。
楊志は剣を鞘ごと拳に当て、筋を震わせた。
誰ともなく転がった石をきっかけに、隊列が揺れる。
「水に浸けた梅で粥が炊けるか!」
怒号でごまかすように唄を切らせると、農夫たちは筏を岸へ寄せず流れ去った。
――盗人の下見。
荷を奪う気なら夜まで待つはず。
楊志は護送旗を畳み、兵を半数ずつ輪営の中へ休ませる。
残り半数には松明を持たせ、木箱の影を作らせない。
朱の銘板は昼より黒く鈍い色。
その夜、星は雲に隠れ、風だけが荷車の隙間で細い口笛を吹いた。
粥の匂いはどこにも無い。
あるのは焦げた草と汗と、揺れる剣の影。
楊志は寝かせた剣を指で叩き、瞳を閉じないまま夜明けを待った。
生辰綱が重く冷たく息を潜める。
腹は空かない――空かせてはならぬ。
だが、喉の奥で水を欲しがる感覚は、剣より鋭く心臓を突いていた。
炎天の護送は、水と信頼を同時に奪います。
粥の唄を合図に忍ぶ影。疲弊した兵、揺らぐ隊列――
次話、焦げた道はついに崩れ、楊志は宝と剣の両方を手放す岐路に立たされます。
椀より重い木箱、刃より乾いた喉。運命が傾いたその瞬間を、お見逃しなく。




