表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
梁山泊 -Liang’s Dining-  作者: 高火力鉄鍋
42/89

第三十三話 湯気の旗と帰り路

夜明け前、東市の霜は薄い霞のように足元を漂っていた。

椀屋の白い暖簾の周りには昨夜のうちに杭が打たれ、新しい竹札を吊るす長い紐が張られている。

李翔がかまどに火を点けると、昨日よりも濃い香りが立ちのぼった。

酒粕をさらに削り、蜂蜜の代わりに桂花けいかを砕いて溶かす。

「都で焚く最後の鍋だ。香りを厚く、腹の奥まで残す配合にした」

清蘭が花椒かしょうを指で捻りながら頷き、湯気の層を整える。


周文は日次帳の最終頁を開き、「椀屋 三日目」と大書する。

竹札は初日・二日目で六百を超えた。

今日は千を超える――それが彼の見立てだった。

「数字の震えは止まった。

 あとは墨を走らせるだけで灯が都に沈む」

彼はそう言って筆先に新しい墨を含ませる。


史進は九竜の旗を柱に括り付け、弓は背に戻さない。

旗竿の穂先代わりに白い布を巻き、湯気が上がるたびに布が小さく揺れた。

「梁山泊へ帰るにえ代わりに、この布を灯で染めて持ち帰る」


魯智深は丸太を横倒しにして長椅子にし、隊列整理を手伝う門番の陳石を呼んだ。

「坊主の拳より君の声が列を動かす。

 並びを崩さず、椀を割らせるな」

陳石は胸を張り、慣れた手つきで竹札を配り始めた。


陽が昇り切る前に列は市の端を超えた。

遠く緞陽の邸から連絡役の魏弁が駆け、息を切らしながら箱を差し出す。

「桂花は安全だと確認した。

 太尉の蔵から解放された純粋な花だ」

翔は香りを嗅ぎ、昨日の硫黄臭がないことを確認すると鍋へ一握り落とした。

甘さに木の蜜のような柔らかい厚みが加わり、列のざわめきが穏やかな息に変わる。


午前の鐘。

最初に椀を受けたのは街西の若い母親だった。

背に幼子を負い、自分の竹札だけでなく子の札も刻む。

「この子の灯を米より先に覚えさせたい」

湯気が子の頬を撫で、列の兵がそれを守るように立ち位置を詰めた。


次に列へ入ったのは昨日まで高俅の私兵だった男。

短剣は帯びたままだが、柄は布で巻き、手には自家製の竹札。

「刃を握る前に腹を温める灯を選ぶ」

彼が椀を掲げると、後続の男たちが一緒に短剣を布で包み、竹札に名を刻んだ。


正午を過ぎた頃、竹札は千を数え、翔の鍋は最後の粥を湯で伸ばしてかき混ぜる。

魯智深が丸太を杵に、史進が旗で風を作り、湯気を高く上げた。

王進が帳面を鍋の上で広げ、朱印を捺すとき、列の全員が静かに見守った。

「都の腹は椀で満ちた。

 数字は腹で刻まれ、刃は湯気で曇った」


帳面の朱封が乾くころ、宋江と呉用が西市の椀屋を閉めて駆けつけた。

竹札の束を掲げ、東市の人々へ深く礼を取る。

「今日から“椀屋”は都の灯。

 だが梁山泊は旅の灯――私たちが預かり、ここで守る」

翔は暖簾を畳み、竈の火を落とした。


夕刻。

列が解け、人々は各々の仕事へ戻りながら椀を胸に抱いたままだった。

竹札は東西合わせて千四百三十二。

日次帳の余白が埋まり、周文は最後の行に大きく朱で「了」と書いた。


王進が帳面と竹札を布に包み、肩へ掛ける。

「都での灯は託した。

 梁山泊へ帰り、次の椀旅の支度をする」


林冲は槍を背に、娘娘とともに暖簾を丸めて竈と一緒に橇へ括る。

史進が旗を畳み、九竜の背で押さえた。

魯智深は丸太を肩へ担ぎ直し、市の端で振り返る。

「坊主の腹は都の灯でいっぱい。

 梁山泊まで持ち帰り、次に空腹な者へ渡す」


空に淡い星がひとつ現れた。

東市の石畳には、三日間の湯気が描いた円がいくつも重なり、

月の白光で薄い銀に光っていた。


梁山泊への帰り路、彼らの背には湯気で温められた布包みと旗。

凍える夜風の中でも、甘い香が細く尾を引いていた。

都編を締めくくる千椀超えの「湯気の地図」が完成し、梁山泊への凱旋の旅が始まりました。

次話から舞台は山へ戻り、灯を携えた帰郷と新章〈辺境椀旅〉の準備を描いていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ