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梁山泊 -Liang’s Dining-  作者: 高火力鉄鍋
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第三十二話 蜜と灰の湯気

夜明け前の東市は、昨日と同じ霜をまとっていた。

しかし空気に甘い香がひそみ、椀屋の白い暖簾には前夜より多くの布影が揺れている。

李翔が竈を起こすと、小麦と米を合わせた粥が静かに沸き、酒粕の薄膜が光を受けた。


周文は竹札を点検し、昨日受け取った職人や兵の名を上から読み返した。

「今日は倍を想定しよう。

 竹札を切り足しておく」


史進は旗を柱に結び、弓を背へ戻す。

「矢は刺さずに済む。

 香で合図を送る方が―」

言いかけた時、屋台裏で木箱を運ぶ音がした。

門番あがりの陳石が、まだ閉じた木箱を抱えている。


「緞陽の邸から差し入れです。

 桂花と蜂蜜。昨日の酒に混ぜてくれと」

翔が箱を開けると、蜜壺の底に薄い灰がへばり付いていた。

かすかな硫黄。

舌端に近づける前に甘さが歪む。


魯智深が丸太で底を軽く突き、灰を嗅いだ。

「火薬の粉に近い。

 香りに負けて腹を割く毒かもしれん」


林冲が槍を布ごと握り、娘娘に目配せする。

「鍋に近づけるな。

 灰を煎じると湯気で毒が広がる」


翔は箱を閉じ、代わりに酒粕を新たに削り入れた。

「甘さは蜂蜜より米で立てる。

 桂花は信じていたが、今は使えない」


周文が灰を紙に包み、帳へ貼り付けた。

「『灰二合』――竹札と同じく記録。

 犯人を腹で覚えさせる」


午前の鐘が鳴る頃、初日の倍近い列ができた。

しかし列の端で、身なりの良い男が小声で何かを囁き、数人を引き戻している。

「椀は毒。昨日の甘さに薬を溶かした。

 皿を掲げる者だけが安全だ」


男の背後に控えるのは、高俅の財で雇われた私兵──

黒い帯に短剣を隠し、視線だけで威圧している。


史進が矢羽根に松脂を付け、男の足元に放った。

矢は地を弾き、松脂が火花を散らさず煙だけを上げる。

列がざわめき、男が一歩退いた。


魯智深が丸太を肩で転がし、音を立てぬよう男の前へ置いた。

「毒が心配なら椀は要らん。

 だが腹の凍えは皿で救えない」


男は唇を噛み、背後の私兵が短剣に手を伸ばした。

その時、列の中から昨日の老書吏が進み出る。

「毒なら私の筆先が震えるはず。

 だが今朝の数字は静かに流れた」

彼は椀を掲げ、粥をすすって見せる。

震えぬ手で竹札に名を刻んだ。


続いて鍛冶夫婦、門番陳石、兵たちが口々に灯の味を語る。

香りと湯気が霜を割り、短剣の刃先へ落ちた雫が凍らず溶けた。


男の顔に汗が浮き、私兵は短剣を納めた。

「……皿は冷えたまま。

 この朝を動かすほどの力は無い」

男は灰入り蜂蜜の箱を地に置き、背を向けて去った。


翔は箱の蓋を開け、灰を粥に近づけぬよう慎重に別の壺へ封じた。

「甘さを盾に毒を隠す策も、腹が選べば割れる」


周文が帳に新しい行を書く。

“毒蜂蜜 一箱 未使用”

「数字も毒も、陽に晒せば灯で溶ける」


昼前、列は延びながらも静かに進み、竹札は三百を超えた。

桂花なしでも香は立ち、酒粕の薄膜が白い朝を金色に映した。


翔が鍋をかき混ぜながら呟く。

「都の腹が椀を選ぶ力は、刃より速い。

 明日、椀屋の列が市の端を超えたら、凱旋の荷を詰めよう」


王進は頷き、朱印の束を締め直す。

「梁山泊へ帰る時、皿の破片も毒の灰も持ち帰り、

 次の灯を絶やさぬ証にしよう」


日暮れ前、椀屋の湯気が細くなった頃、緞陽の邸から一通の文が届く。

封は魏弁。

内容は「太尉、高熱のため今夜公務を休む」。

その裏に震える筆跡で小さく添え書きがあった。

――「椀が冷える前に、都を託す」


魯智深が丸太を地へ下ろし、空を仰いだ。

「拳より重い椀が、あの皿持ちの腹を動かしたな」


史進は旗を巻き、弓を背へ戻す。

「都の朝は椀で始まり、夜は椀で眠る。

 九竜の背が温かい」


翔が大鍋の火を落とし、残った粥を小さな壺へ詰めた。

「明日が都での結び。

 湯気を土産に梁山泊へ帰ろう」


霜が再び降りる前に、椀屋の灯は片付けられた。

しかし石畳の白い面には、湯気で描かれた丸い跡がいくつも残り、

夜灯に照らされて薄く光った。

毒を抱いた蜂蜜も、腹で選べば破られる。

都二日目、竹札三百余と椀三百余が灯を固め、梁山泊への凱旋準備が整い始めました。

次回は都編最終日。

椀屋の列が市を越え、凍霜と甘露、剣と丸太――すべてをまとめて梁山泊へ持ち帰る旅立ちの朝を描きます。

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