第二話 口より先に、心がほどける
梁山泊と呼ばれるその野営地は、今日も喧騒に包まれていた。
どこから来たのかもわからない兵士たちが集まり、焚き火のそばで酒を酌み交わし、時に怒号を飛ばし合い、時に剣を交える。
だがその一角にぽつんと建つ木造の小屋には、不思議と静けさがあった。
そこが、李翔の営む「飯屋・梁山泊」だった。
店と呼ぶにはあまりに粗末な造り。
だが、その小さな厨房から漂う香りは、どこか人の心を落ち着かせる力を持っていた。
「ねえ、ここの炒飯、また食べたいな」
ひとりの少女が、ぽつりと呟いた。
翔が振り返ると、店の前に、泥まみれの若者が倒れていた。
少女はその傍らに寄り添っている。
年の頃は十六、七。薄汚れた布を羽織りながらも、瞳はしっかりとした意思を宿していた。
「すまない、この人……昨夜から何も食べてなくて。気がついたら、ここに辿り着いてたの」
「そっか。ようこそ、“梁山泊”へ」
翔は微笑み、厨房に戻った。
*
「……で、結局、何を作ってんだよ」
隣に座る凌凰が、相変わらず口うるさい。
「今は、“粥”。こっちの胃には慣れてないからな。いきなり炒飯じゃ腹を壊す」
「優しいな、お前」
「料理人だからな。体に優しく、心にも届く。基本だよ」
翔は土鍋に湯を張り、米と干し貝柱、刻み葱を入れて火にかけた。
ぐつぐつと音が立ち始めると、香りがゆっくりと店内に満ちていく。
目を覚ました青年は、戸惑いながらもスプーンを握り、ひと口すくった。
──何も言わない。
ただ、次のひと口がすぐに続いた。
「名前は?」
翔が尋ねると、青年はしばらく沈黙したあと、ぽつりと答えた。
「周 文……元は、書記官だった」
その言葉に、凌凰の眉が動いた。
「文官か。どうせ汚職に巻き込まれて逃げた口だろ」
青年の手が止まる。だが翔は、にこりと笑って言った。
「いいじゃないか。逃げてきた先で、うまい粥に出会えたなら」
周 文はスプーンを置いた。そして、頭を下げた。
「……ありがとう。たぶん、久しぶりに、食べ物で泣きそうになった」
*
食後、外の焚き火にあたりながら、翔はひとり土鍋を洗っていた。
そこへ少女が近づいてくる。
「ねえ、おじさん。どうして、こんなところで料理してるの?」
翔はしばらく考えたあと、笑って答えた。
「それは俺も、ずっと考えてる。でも、ひとつだけわかってるのは──
腹が満たされれば、ちょっとだけ人は話をしてくれるんだよ」
少女が静かに頷いた。
「わたし、清蘭。あの人と一緒に、もう少しここにいさせて」
「もちろん。“梁山泊”は、腹が減ってる奴と、居場所がない奴のためにある」
その夜、李翔はひとつの張り紙を小屋の前に掲げた。
──《梁山泊 飯屋》
疲れたら寄れ
黙ってても、飯は出す
そう書かれた札が、月明かりに照らされていた。
粥は「優しい料理」の代表格ですが、その優しさは味だけでなく “食べる速度” にも表れます。
周 文が黙って一匙ずつ口に運ぶ姿は、荒んだ心を少しずつ温めていく焚き火のようでした。
──言葉より先に、香りと温度が人の壁を溶かす。
料理人・李翔の武器は包丁でも鍋でもなく、その「場」をつくる力なのかもしれません。