表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
梁山泊 -Liang’s Dining-  作者: 高火力鉄鍋
27/89

第十九話 九竜、雪を蹴って

史進は師が去った翌日の朝、刺すような冷えで目を覚ました。

白い息を吐きながら柱に掛けた木剣を見つめる。王進から預かった剣だ。

床の上には師が残した竹簡がある。短い筆跡が夜を思わせる淡墨で並ぶ。


――剣を振る掌より、椀を差し出す掌の方が難しい。

 されど椀が守るものを疑うな。

 雪が融けたら道を踏め。九竜は歩きながら空を覚える。


竹簡を巻き、香袋を首に掛けた。

母は味噌樽の蓋をしながら微笑む。「戻る前に腹を覚ませ」

湯気をいっぱいに含む豆粥に、雪雁の脂を溶かしてくれる。

甘くて辛い。喉に落ちる熱は迷いを追い払う薬だった。


村を出る時、背中の九竜が雪に映る。

竜は動かず、代わりに胸が高鳴った。

険しい峠を越えれば梁山泊の飯屋がある。

そこに師が辿り着くなら、遅れず追い付こう。


道は静かだった。雪靄ゆきもやで足跡が消え、森は沈黙している。

昼過ぎ、峠道で倒れた行商人を見つけた。

荷車は壊れ、塩俵が散らばっている。

脇腹には短い刃の痕。賊の仕事だ。


史進は荷車を雪で覆い隠し、行商人を背負って近くの山小屋に運んだ。

薪は湿り、火が上がらない。

首の香袋から山椒を摘まんでき、煙を細く立たせる。

鼻を刺す辛い煙に混ざり、豆粥の甘い記憶がちらついた。

行商人の目が微かに開く。「……剣に、九つの竜……」

史進は首を振った。「まだ剣は握っていません。これが初めの働きです」

傷を縫い、白湯を飲ませる。

夜更け、商人は震える謝辞を残し眠りに落ちた。

油の尽きた灯には山椒の炭が赤い火色を残している。

師の言葉が胸に蘇る。

椀を差し出す掌の難しさ──今、少しだけ分かった気がした。


翌朝、山靄の向こうに幾つかの影が動いた。

狼皮の山賊。昨日の行商人を襲った一味だろう。

斧を担ぎ、雪を掻きながら峠を下ってくる。

史進は小屋の入口に立ち、木剣をゆっくり構えた。


一人が笑い飛ばす。「子どもか? 弓と刺青がよそおい物なら命を置いてけ」

別の賊が鼻を鳴らす。「香辛料の匂いだ。小屋の中に荷が残ってるな」


木剣を握る手が汗ばむ。

だが剣を抜かない。

背後の行商人を守るまでが椀の務めだ、と師が教えた気がした。


賊が雪を蹴り、斧を振り上げた。

その瞬間、峠上から豪快な声が落ちた。

「剣を振るにも腹の順序を守れ!」


丸太の唸りが雪を割り、斧を吹き飛ばす。

賊が弾かれた先で、黒い僧衣の巨躯が雪を踏み鳴らした。

花和尚、魯智深。


続けて静かな声が降りる。

「香袋の印は史家村。九竜に間違いない」

背後には旅装の教頭、王進。


驚く賊を前に、魯智深は丸太を肩に掲げた。

「椀を選ぶなら拳は要らんぞ」

王進は木剣を水平に構えつつ、史進に目を向ける。

「弓を引くか、椀を差し出すか。君の心次第だ」


史進は首の香袋を握り、深く息を吐いた。

足を一歩踏み込み、木剣を斜めに構える。

「師の剣、僧の拳。椀を守るなら弓はいらない。

 けれど村で受けた椀を返すため、ここで立ちます」


魯智深が朗らかに笑った。

「良い腹だ!」

丸太が雪を跳ね、賊の列を一息で崩す。

王進の木剣が刃を外した打突で手首を弾き、史進の木剣が柄で膝を払った。

賊の斧は雪に埋まり、狼皮がばさりと散る。


残った賊頭が震える手で短剣を構える。

雪の上に湯気が漂った。

王進が小さな鉄鍋を雪に据え、魯智深が腰の酒を注ぐ。

香袋の山椒を散らすと、辛く甘い匂いが立ち昇り、賊頭の膝が抜けた。


「腹が冷えたら刃も震える。椀を取るか、罪を積むか。選びなさい」

王進の声は雪より静かで温かい。

短剣が落ち、賊頭は深く頭を下げた。


椀に湯を注ぎ、汁を啜った賊の目に涙が浮かぶ。

師を失った腹の記憶が、この湯気で蘇るのだろう。

雪は薄陽でわずかに融け、鍋が小さく湧いた。


賊たちが去ったあと、三人は鍋を囲んだ。

魯智深は丸太を背にしながら言う。

「坊主は拳を振ったが、腹はまだ満たされん。

 梁山泊で椀を重ねてこそ本当の勝負だ」


王進は史進へ木剣を差し出した。

「剣は返しに来たか?」

史進は首を振る。

「剣はまだ返せません。椀を守る心が追いつくまで預からせてください」


王進はうなずき、鍋から猪の背脂を掬って史進の椀に落とした。

「では梁山泊で続きをしよう。九竜の火が本当に灯るか、私の椀で試す」


峠の雲が切れ、遠い空に白い暖簾が揺れている気がした。

剣と拳と弓、そして鍋の湯気。

三つの灯がようやく一つの卓を目指して歩き始める。

史進が師の背を追い、雪峠で王進と魯智深に合流。

椀が刃を収め、三つの火は梁山泊へ向かって束ねられました。

次回、ついに飯屋の暖簾が揺れ、剣・拳・弓が同じ卓に椀を並べます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ