第一話 流れ者、梁山泊に入る
内容修正しました。
鉄鍋の底で油がチリ、と小さく跳ねた。
葱|ねぎ《》、生姜|しょうが《》、そして花椒|かしょう《》を落とすと、黄金色の油が一気に泡立ち、甘く痺れる香りが厨房の天井を押し上げる。
李翔は柄の摩耗したフライパンを握り、手首だけで鍋を翻した。切りそろえた豚肉と筍が宙を踊り、青椒肉絲《チンジャオロース》の艶が照明を弾く。
「はい、青椒肉絲――あがりです」
東京・中野の路地裏。町中華「梁山泊」は土曜日の昼どき、常連客のざわめきで湯気を震わせていた。
カウンター席のサラリーマンが満足げにうなずき、奥のテーブルでは老婦人が笑う。
「翔ちゃん、そこに杏仁豆腐も乗っけておくれ」
──ここには戦も策もない。あるのは、ただうまい飯と、それを食べて笑う人々。
翔は皿を並べながら、ふと排気口の向こうの空に目をやった。
次の瞬間、床下から“ドン”と鈍い衝撃。
足裏を伝う揺れに反応するより早く、視界が反転し、耳鳴りとともに意識が遠ざかった。
* *
鼻を突く土の匂い。乾いた獣臭と混ざり、咽せ返るような泥の湿気が喉に絡む。
頭上を馬が駆け、男たちの怒号が風を切る。
朧な視界に、鈍色の空。灰が舞っている。
「……おい、生きてるか? 死んでねえよな」
肩を支える逞しい腕。振り向けば、褐色の肌に古傷の残る青年が片眉を上げていた。
「お前、役人か? いや違う。あんな細い腕、官軍にはいねえ」
「ま、待ってくれ。俺は……」
戸惑う翔の腹が鳴った。
青年は苦笑し、背負った槍を軽く鳴らす。
「梁山泊に来る奴は皆そんな顔だ。ついて来い。食い物くらいは出してやる」
* *
辿り着いたのは荒野の端。薪小屋ほどの掘っ立て小屋に、土窯と干し肉、そして――見覚えのある中華包丁。
「ここは……厨房?」
「好きに使え。腹が減ってるのはお前だけじゃねえさ」
言葉より早く手が動いた。翔は干し肉を水で戻し、包丁で細く切る。
窯に火を熾し、油を流すと、故郷の店と同じ音が耳を満たした。
ジュウッ――
肉の脂が溶け、刻んだ野菜の水気が弾ける。
花椒が少しかすれていたが、熱が補い、香りは烈しく立つ。
「……やっぱり俺、料理人なんだな」
皿代わりの木板に盛った肉野菜炒め。
飢えた兵たちは目を剥き、箸も使わずかき込んだ。
「これが“人”の作る飯か……」
初めて味というものを知った顔で兵が震える。
青年が笑い、袖で口元を拭った。
「名は?」
「李 翔。東京の――いや、もういいか。李翔だ」
「俺は凌凰。流れ者だ。でも、こんな飯が食える場所なら悪くねえ」
鍋の火が揺れる。
風は戦の匂いを運んでいたが、湯気が刃を曇らせるかのように柔く包む。
翔は決めた。
ここがいつだろうと、どこだろうと、自分のすることは一つだけ。
「よし。だったら、俺がこの梁山泊でいちばんうまい飯を出してやる」
腹の音が、言葉より先に人を動かす。
荒野に灯がともり、小さな湯気が夜気へ溶けていった。
数年後――その湯気は戦いの中で別の名を得る。
だが今は、流れ者と腹ぺこの兵が分け合った、たった一椀の物語が始まったばかりだった。
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「剣も知略もない、ただの料理人が梁山泊で何をするのか?」という切り口で始まった物語ですが、
じつはこの梁山泊、中華飯がなければ成立しなかった……かもしれません。
古代中国×中華料理×流れ者たちの群像劇──
少しずつ、傷を抱えた者たちがこの食堂に集まってきます。
次回は、主人公・李翔の料理がもう一人の“迷い人”の心を動かします。
言葉では届かないものが、あたたかい料理で少しずつ解けていく。
そんな瞬間を、お楽しみに。
「飯を食えば、明日が見える」
それが、ここ「梁山泊 -Liang’s Dining-」の合言葉です。