第七話 追われる教頭、雪を踏む
北の空を鉛色の雲が覆い、都大名府には早い雪が舞った。
武芸教頭林冲は、朝の稽古を終えて兵器庫の戸を閉めると、薄い氷を踏んで外へ出る。
雪解けの泥が靴に絡み、寒気より重い気配が背についた。
「教頭どの、太尉さまがお呼びです」
声の主は、錦を着た宦官で目尻に薄い笑いを貼り付けている。
林冲は礼を取り、槍を脇に立てかけた。
「拝謁の儀は午後と伺っていますが」
「急ぎとのこと」
太尉高俅は宮中一の権勢を誇り、気まぐれで人の首を飛ばすと噂される。
林冲は胸の奥で氷が割れる音を聞きながら、白い回廊を進んだ。
—
幕の奥で香がくゆり、紅い帷子の中に高俅が座す。
その膝下に織物の包み。
「林教頭、これは珍しい宝刀だ。お前の目で鑑定せよ」
包みを開くと、刃に薄い波紋が走る名刀が現れた。
林冲は一目で息を呑む。
「越国の鍛ち、千鍛の業物。宮中に納めるのなら、油を薄く――」
太尉は笑を含む。
「なるほど、見立ては確かだ。だが余は、宝刀より忠心を買いたい」
林冲が顔を上げた瞬間、帷子の裏からもう一人が現れた。
塗り金の笠を被った役人が巻き紙を掲げる。
「高俅殿の私室で軍器を奪わんとした大罪により、林冲を獄へ送る」
「何を――!」
林冲が振り向くより早く、長柄の殴杖が背を打った。
名刀は床に転がり、黒い漆が雪より冷たい音を立てた。
—
雪は深く、獄は暗い。
鉄格子の外で吏卒が笑う。
「武芸の達者も鎖一つで鼠よ」
林冲は拳を握り、壁の霜に血を滲ませた。
「俺は盗みなどせぬ。罠だと分かっていながら、剣を捨てる術がない――」
夜半、獄舎の隅で囚人が声を潜めた。
「教頭どの、命が惜しけりゃ京を出なされ。高太尉は逃げた獲物を追うより、死体を好む」
林冲は鎖の環を見つめた。
乾いた血が黒く錆びた色に変わり、雪明りが枷を照らす。
「剣を持てば濡れ衣、捨てれば誇りを奪われる。ならば――」
翌朝、牢役人が戸を開けた時、林冲は静かに申し出る。
「辺境の配流、お受けいたす」
太尉の影が都から消えるまで、遠くへ、遠くへ。
—
三日後。
吹雪の街道を護送の兵が進み、林冲は荒縄で馬に繋がれた。
鼻先に雪が溜まり、睫毛が凍る。
護送兵は酒で紅くなった顔で笑う。
「配所は九百里の奥、炭窯暮らしだ。手も槍も二度と握れまい」
その言葉さえ、氷の風が削り取る。
林冲は振り返らない。
都に残した妻への想いが胸を刺す。
それでも雪の膜の向こうに、遠い灯を見た気がした。
荒野の空気に溶ける甘い肉の匂い、揺れる白い暖簾。
足枷が音を立てるたび、その灯がわずかに近づくように感じた。
理不尽の雪に埋もれ、武芸教頭は誇りと剣を奪われました。それでも前へ進む足は凍りつかない。次話では吹雪の峠での襲撃と、林冲の覚悟が試される“薪の夜”を描きます。梁山泊の暖簾へ続く道筋を、もうひと息だけご一緒ください。




