プロローグ ──これは戦じゃなく、飯の話だ。
雨が降っていた。
細くて冷たい、都会のビルの隙間を縫うような、記憶にも残らない小雨。
その中を、李 翔はいつも通り、厨房の裏口から仕込みの荷物を担いで店に入った。
「今日も、うまい飯を出すだけだ」
東京・中野の片隅にある町中華「梁山泊」。
飾り気はないが、常連には愛されている。
学生たちの腹を満たし、サラリーマンの疲れを癒やし、近所の老人たちには唯一の居場所となる。
李 翔は、そんな店の料理人であり、店主だった。
だがその日は、いつもと少しだけ違っていた。
ガスの火を点けた瞬間、頭の奥が「カッ」と焼けるように痛んだ。
次の瞬間、視界が反転し、天井が地面になり、重力が壊れるような感覚に包まれた。
目を覚ましたとき、そこにあったのは──
瓦と土と、血の匂いが混じる、まるで古い時代劇のような風景だった。
「……は?」
目の前には槍を持った男たちが走り、野営の焚き火が焚かれていた。
遠くでは誰かが喚いている。
聞いたことのない言葉。けれど、なぜか理解できる。
「ここは……どこだ……?」
倒れ込む李翔を支えたのは、顔に傷のある男だった。
男は言った。
「お前……流れ者か? 腹、減ってねえか?」
──そして始まった。
現代から迷い込んだ一人の料理人が、
乱世の梁山泊で「飯屋」を始めるという、誰も知らない戦が。
剣じゃなく、包丁で。
戦略じゃなく、レシピで。
怒号じゃなく、香りで。
腹を満たし、心をつなぎ、世界を少しだけ変えていく──
これは、そんな梁山泊の、もうひとつの物語。
そして今日も、のれんが風に揺れる。
「梁山泊へ、ようこそ。うまい飯、ありますよ」
筆者が梁山泊で好きなメニューはカツ丼です。