9 式神たちの想い
「ぐわああああああああああああああっ!」
赤く輝く炎に覆われた地面の上では、申可意兵がナツの上で四つん這いになっており、千倍の重さになった重鬼の足を激痛に耐えながら背中で受け止めていた。
「申可意兵!」
「邪魔が入ったか。ならば、まとめて踏み潰してやるまでだ!」
重鬼は申可意兵の背中の上に立ったまま、右足で申可意兵の後頭部を何度も激しく踏みつけ、苦悶の表情で叫び声を上げる申可意兵の腕は次第に曲がっていき、胴体はナツに向かって少しずつ下がっていた。
「申可意兵! 俺のことはいいから、早く逃げろ!」
「逃げる……もんかあああああああああああああっ!」
叫んだ申可意兵の脳裏に、桃花との記憶が蘇った。
申可意兵は布で包んだ荷物を背負いながら、マントを纏った桃花と一緒に魔界の村を歩いていた。桃花はフードを被らず、異形の骸骨のお面を後頭部にかけていた。
「あー、何か腹立つ! 酉野郎と戌野郎はしょっちゅう出番があるのに、俺を呼び出すのは戌野郎が休憩する時だけだ! しかも、戌野郎は兄弟交互に眠るから休憩なんて一週間に一日だけだ! あー、ムカムカする! 桃花! もっと俺を呼び出して暴れさせろ!」
桃花は優しい笑顔を申可意兵に向けた。
「申可意兵さん、ごめんなさい。でも、酉可意兵さんは私たちの現在地と村を繋ぐために常に往復する必要があるのです。戌可意兵さんは鼻が利きます。温羅と距離を取りながら追跡し、温羅がほかの魔物と接近したことを嗅ぎ分けてくれます。温羅が姿を消しても、必ず嗅覚で見つけてくれます。この役目を果たすためには、彼らが必要なのです」
「あー、ますます気に入らねぇ! 俺は必要がねーってことか?」
「そんなことありませんよ。申可意兵さんのことも頼りにしてますよ」
「どんなところを頼りにしてるんだ?」
「えーと……、そう、力持ちのところとか!」
「他は?」
申可意兵の問いに、桃花は笑顔のまま表情が固まった。
「……すみません。しばらく考えさせてください」
「おい!」
村の中で遊んでいた六体の魔物の子どもに、温羅が姿を消したまま近づき、口から液体を浴びせかけた。温羅が巨大な頭だけの姿を現し、怯える子どもたちを見て満足そうに笑った。
「わははは! お前たちの肉体を破壊して魂を食らってやる!」
笑う温羅の目の前から子どもたちが突然消えた。
「何っ! また邪魔しに来たか!」
温羅の目の前に、頭からフードを被り、異形の骸骨のお面をつけた桃花が姿を現した。
「誰もあなたの犠牲にはさせません。私が全ての命をあなたから守って見せます!」
「俺がこいつをぶっ倒してやるぜ!」
申可意兵が咆哮とともに、白い光に包まれた左右の拳の連撃で温羅の後頭部を狙い、温羅は空高くに上昇しながら逃げて行った。
「ちっ! 逃したか!」
桃花はお面を外して申可意兵に言った。
「申可意兵さん! 何度も言いますが、温羅を攻撃してはいけません。温羅を倒してしまうと、余計厄介なことになるのです!」
「うっせーな! 俺は暴れてーんだよ!」
騒ぎを聞きつけた大人の魔物たちが、桃花たちの周りに集まってきた。桃花は光る両手で空間の裂け目をつくると、気絶している子どもたちを出現させた。
「みなさん無事ですよ。よかっ……」
村に乾いた音が響いた。一体の女性の魔物が桃花の頬を平手打ちしていた。
「あんた、あたしたちの子どもたちに何すんだい?」
「お前ら、余所者か! この村に来て、子どもたちをさらって何する気だ? さっさと村から出て行け! ぶちのめすぞ!」
「なんだコラ? やる気か? 面白れぇ! まとめてぶっ倒してやるぜ!」
息巻く申可意兵を桃花が俯いたまま制した。
「申可意兵さん! ダメです! みなさん、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。今すぐ立ち去りますので、どうか許してください。申可意兵さん、行きましょう」
「あーっ? 何でお前が謝るんだよ! おい、待てよ!」
申可意兵は、背を向けて歩き出した桃花を慌てて追いかけた。
「もう二度と来るなーっ!」
後ろから村の魔物たちが桃花たちに罵詈雑言を浴びせ、一体の魔物が投げつけた石が桃花の頭に当たった。
「あ! あいつら許さねぇ! 全員ぶっ倒してやる!」
申可意兵は後ろを振り返って激怒し、村の魔物たちに襲いかかろうとして一歩踏み出したが、桃花が俯いたまま申可意兵の行動を制止した。
「申可意兵さん! ダメです! 早く行きましょう」
「あーっ、もう! 何でだよ! お前、こんなことされて腹が立たねぇのか! 温羅のことを説明したらどうなんだ?」
「無駄ですよ。温羅を目にしない限り、信じてもらえません。いつもそうでしたから……」
「でもよぉ……」
桃花に目を向けた申可意兵の動きが止まった。俯いている桃花の目の辺りから、キラキラと輝くものが零れていた。
『桃花、泣いてるのか? 本当は辛いんだよな。悲しいんだよな……』
桃花は両手で目の下をゴシゴシ擦った後、申可意兵に笑顔を向けた。
「私の願いは温羅から全ての命を守ることです。あの子たちの命を温羅から守ることができて、私は今とても幸せです」
桃花の輝く笑顔には、額から一筋の赤い血が流れ、涙を拭った跡があった。
四つん這いになって千倍の重さになった重鬼に背中を踏まれ、後頭部を執拗に踏みつけられている申可意兵の目に涙が浮かんでいた。
『短気で、暴れん坊で、問題ばかり起こす俺を桃花は見捨てなかった。俺がどれだけ文句を言っても、トラブルを起こしても、桃花はいつも優しい笑顔を俺に向けてくれた。いつも同じ態度で、眩しい笑顔を向けてくれた。桃花、お前の願いが全ての命を温羅から守ることなら、俺が絶対に叶えてやるぜ! 温羅にも、こいつら温羅の手下にも、誰の命も奪わせねぇ! この人間の命は絶対に俺が守る!』
「があああああああああああああああああっ!」
申可意兵は咆哮とともに重鬼を押し返して立ち上がり、重鬼は離れた場所にふわりと着地した。申可意兵は重鬼に突進した。
「俺は、絶対にお前には誰の命も奪わせないぜええええええっ!」
申可意兵の咆哮とともに、右の拳が白い光に包まれて重鬼に向かって伸びていった。
「何っ?」
申可意兵が見上げた先では、空を切った拳の上方三十メートルに重鬼が跳び上がっており、叫びながら凄いスピードで足から落下してきた。
「ならば、先にお前を粉々にしてやるぜ! 千倍の体重でなあああああああっ!」
「申可意兵! 古より時節の移ろいを司りし青朱白玄之尊よ! その御力を宿し給え!」
両膝が砕けたナツは上半身を起こして蝉時雨之破砕を放つ動作をした。その視線の先では、申可意兵のすぐ上まで重鬼が迫っていた。
「このチャンスを待ってたぜえええええっ!」
申可意兵はそう叫ぶと、重鬼の足を紙一重でかわし、重鬼の両脚を両腕で抱えて重鬼をうつ伏せに地面に叩きつけた。重鬼は苦しげに呻き声を上げ、地面には激しい振動とともに大きな亀裂が何本も走った。 申可意兵が重鬼から離れて距離をとると、続けてナツが放った蝉時雨之破砕が重鬼を直撃し、重鬼は全身が激しく振動して苦悶の表情で絶叫した。
「止めだあああああああああああっ!」
申可意兵は重鬼に突進し、咆哮とともに白い光に包まれた右の拳を鬼の後頭部に叩き込み、重鬼は気を失って動かなくなった。
「やったぜえええええええええええっ!」
申可意兵は顔を上に向けて、歓喜の叫び声を上げた。
溶鬼の体が瘦せていくのと同時に、両腕が異常に長く伸びた。
「古より桃の木を司りし丕神乃美之命よ! その御力を宿し給え! 火之文字宿御霊!」
桃花は両手で持った枝の先でそれぞれ空中に『火』の文字を書くと、その文字が空中で赤く光る文字となり、文字から炎が放射されて溶鬼に向かって伸びていった。溶鬼は両腕を残して全身を水溜まりに変えて炎を避けると、水溜まりから突き出ている両腕が鋭い爪を先頭にして長く伸び、桃花に襲いかかった。
戌可意兵が桃花の前に飛び出すと、白い光を放つ両前足の爪で溶鬼の右腕を捕らえ、白く光る兄の牙で噛みつこうとしたが、右腕は溶けるように落下して水溜まりに変わった。
桃花は迫る左腕を二本の枝で受けたが、その左腕の先端にある手が波打ちながら膨らんで溶鬼の頭部に変形した。溶鬼がニヤリと笑うと、腕と水溜まりは波打った後でヘビの胴体に変形して戌可意兵の胴体に巻きついて強く締めつけ、戌可意兵の兄弟は激痛に襲われて絶叫した。
桃花の前では、溶鬼の開いた口から突き出された舌が波打つと、先端が尖った触手に変形して桃花の顔を目がけて伸びてきた。桃花が羽織の袖で触手を受けると、触手が当たった部分の桃の花が光を放って触手を弾き返した。
「古より桃の木を司りし丕神乃美之命よ! その御力を宿し給え! 申之文字宿御霊!」
桃花は大きく後ろに跳んで溶鬼と距離を取りながら、右手で持った枝の先で空中に『申』の文字を書くと、その文字が空中で黄色く光って溶鬼の顔に向かって雷を放った。溶鬼は全身が溶けるように水溜まりに変わって雷を避け、水溜まりは地面を移動して戌可意兵から離れていった。
水溜まりは桃花と戌可意兵から距離をとると、高く盛り上がって溶鬼の姿に変わったが、頭の上の五本の角が長さ三十センチの尖った角一本に変わっていた。
溶鬼はニヤッと笑いながら、桃花に言った。
「へへへ……、お前たちじゃあ、俺は倒せないなぁ。お前たちはここで俺に食われるのが運命なのさ。へへへ……」
「運命……」
桃花の脳裏に子どもの頃の記憶がよぎった。
八歳の桃花は、桃の林のそばの草原で両手両膝をついて息を切らしていた。その隣には両手に桃の枝を持った母が厳しい表情で立っていた。二人はお揃いの無地の赤い羽織に白衣と薄桃色の袴、白足袋に草履を身に着けていた。
「桃花、立ちなさい。あなたは我が一族に伝わる神伝霊術の宗家として、次の世代に術を伝えていくという大きな役目があるのです。他の伝承者とは立場が違うのですよ。そして、我が一族に伝わる神伝霊術を遣いこなすためには、枝を使った武術にも長けなければなりません。もう一度かかってきなさい」
桃花はそばに落ちていた二本の桃の枝を手にすると、必死に母に向かって行った。
桃花と母は丸太を半分に切って作られたベンチに並んで腰掛けながら、離れた場所で六人の幼児が楽しそうに鬼ごっこをして遊んでいる様子を眺めていた。桃花の顔や首、手にはたくさんの痣があった。
「桃花、母も辛いのですよ。我が子にこんなに厳しい稽古を毎日繰り返すことは、胸が痛いのです。でも、あなたは神伝霊術の宗家の長子として生まれました。どうか、運命だと思って受け入れてください。でも、もっと辛いのは、あなたの妹の燃実のことなのです」
「お母様。燃実はもうすぐ五歳になります。本当に五歳になったら、私のように遊ぶことも許されない修行ばかりの毎日を送ることになるのですか? 長子の私は物心ついた時から修行ばかりの日々で、友達もいませんでしたが、私はそれを受け入れています。でも、妹までそんな生活を送るなんて私は嫌です。あんなに楽しそうに友達と遊んでいるのに」
桃花は、はしゃぎながら友達と遊んでいる燃実を悲しそうに見つめた。
「仕方がないのです。我が一族では、宗家の長子が跡を継いで後進を育成し、その弟か妹の中で一番の年長者は、修行を終えたら温羅追跡のお役目を果たさなければならないのです。後継者となる者の修行が終わるまで、二十年や三十年は村に帰ることもできず、温羅を追って各地を放浪しなければならないのです。そして、常に命の危険と隣り合わせです。
今温羅を追っている私の弟も村を出て十年になりますが、私は弟のことが心配です。そして、弟の後を継いで温羅追跡のお役目に就くことになる燃実の将来も心配で、胸が苦しいのです。悲しいことですが、これも弟と燃実の運命なのです」
「お母様……。温羅追跡のお役目を誰かに替わることはできないのですか?」
「危険で過酷な温羅追跡のお役目をしたい者などいません。一族が揉めたり、温羅追跡のお役目に就こうとする者が誰もいない状況になることを避けるため、先祖が決まりをつくったのです。例外は宗家に子どもや第二子がいない場合のみなのです」
桃花は俯きながら、膝の上の拳を握りしめた。
「お母様。温羅追跡のお役目を果たす者がいればよいということですよね?」
桃花は母の顔を力強く見つめた。
「私が温羅追跡のお役目を果たします。だから、燃実は村に残れるようにしてください!」
「桃花! あなたは、温羅追跡のお役目がどれだけ危険で過酷なのか、わかっているのですか?」
桃花は目から止めどなく涙を流しながら、母に叫んだ。
「危険で過酷だからこそ、燃実にはそんなことはさせたくないのです! 運命だからという理由だけで妹を苦しめたくない! 妹をそんな目に遭わせるくらいなら、私がその役目を果たした方がずっといい! その方が私は苦しくないのです!」
桃花は毅然として溶鬼に言い放った。
「運命など、私が変えてみせます!」
「へへへ……。じゃあ、それを見せてもらおうか」
溶鬼が前傾して頭の上の尖った角を桃花に向けると、体が瘦せていくのと同時に桃花に向かって角が伸びていった。桃花が横に移動して角をかわすと、角は波打った後に膨らんで腕に変化して桃花の頭部をつかんで引き倒し、その前腕部が波打つと、カマキリの前足のようなもう一本の腕が生え、その先端の鎌を桃花の顔に振り下ろした。桃花は自分に襲いかかる鎌の先端が視界に侵入した瞬間、目を見張った。
『避けられない!』
その時、戌可意兵が飛び込んで桃花の盾になり、兄の首に鎌が突き刺さった。
「兄ちゃん!」
「戌可意兵のお兄さん!」
目を見開いて叫んだ桃花の目には涙が滲んでいた。桃花の脳裏に戌可意兵との思い出がよぎった。
「ん……、ここは?」
マントを纏ってうつ伏せで眠っていた桃花は、目を覚まして上体を起こすと、自分の周りの状況を確認し、自分が戌可意兵に跨って魔界の荒野を進んでいることに気づいた。
「温羅は?」
ハッとした桃花は、雲一つない前方の青空を見上げた後、後頭部に掛けていた異形の骸骨のお面を顔につけて再び空を見ると、一キロ先の地上三十メートルの位置に温羅の後頭部を確認した。桃花はお面を外して安堵の表情を見せた。
「見失っていない。よかった……。戌可意兵さんたち、私はうっかり眠ってしまったようです。申し訳ありませんでした」
戌可意兵の弟が言った。
「僕、兄ちゃんと話したんだ。しばらく寝かせてあげようって。もっと寝ててもいいよ」
「弟の言う通り! 俺っち、桃花様が心配なんだよー。だって、桃花様は村を出て先代の温羅追跡のお役目から引き継ぎを受けて五日経つけど、一睡もしてないでしょ? 先代が引き継ぎで言ってた通り、俺っちたちの背中で眠ればいいんだよ! その間はちゃんと温羅を追うし、何かあればすぐに起こしてあげるからさー」
「ありがとうございます。でも、あなたたちも五日間温羅の追跡を休まずに続けていて、時々こうやって私を乗せていただいて、お疲れではないのですか? それなのに私はいつの間にか眠ってしまって、本当に申し訳ありません」
「僕たちは大丈夫だよ! 僕と兄ちゃんは交代で眠ってること知ってるでしょ? まだまだ元気、元気!」
「お前、超人見知りなのに、桃花様にだけは元気いっぱい話ができるよなー。桃花様、いつの日か温羅追跡のお役目から解放されたら、こうやってのんびり桃花様と旅がしたいなー」
「それいいですね! 是非行きましょう! 行きたいところはあるのですか?」
「俺っち、桃花様と弟さえいれば、場所なんてどこでもいいよ! 桃花様と一緒にいることが俺っちの幸せなんだー。あー、早くそんな日が来て欲しいなー」
「何十年先になるかわかりませんが、私も楽しみにしてます!」
桃花と戌可意兵の兄弟は楽しそうに笑った。
桃花は、溶鬼の頭から伸びた腕の先の手に後頭部をつかまれて地面に倒れ、桃花の前では、溶鬼の前腕から生えたカマキリのような腕の先が、戌可意兵の兄の首に深く突き刺さっていた。カマキリのような腕が波打つと、先が尖った触手が側面から四本飛び出して桃花の顔に迫った。
「桃花様!」
戌可意兵の兄の頭が桃花の顔の前で再び盾になり、四本の触手の先端が頭に突き刺さった。
「兄ちゃん!」
戌可意兵の前足の爪が白く光り、カマキリのような腕と四本の触手を払うと、腕と触手は溶けるように地面に落下して水溜りになり、同時に、桃花の後頭部をつかんでいた手も水溜りに変化して桃花から離れていった。戌可意兵の兄の頭と首には深い穴が開いていたが、血は出ていなかった。
桃花は戌可意兵の兄の頭を抱き締めながら、泣き叫んだ。
「戌可意兵のお兄さん! しっかりして! 実体化を解いて霊力の塊の状態に戻って休んでください!」
「初めて桃花様に逆らうけど、俺っち、まだ消えるわけにはいかないよ……。桃花様と一緒にあいつをやっつけるんだ。そして、いつの日か桃花様と一緒に旅をするん……だ……」
戌可意兵の兄は、幸せそうな微笑みを浮かべながら息絶えた。
「戌可意兵のお兄さん!」
「兄ちゃん!」
桃花と戌可意兵の弟は涙を散らして絶叫した。
離れた場所に移動した水溜りが盛り上がって五本の角を持つ溶鬼の姿に戻ると、溶鬼は満足げに笑った。
「へへへ……。まずは一匹始末した。次はお前たちの番だ。へへへ……」