4 まふゆとナツの誓い
氷結之薙刀を構えたまふゆの脳裏に、十一年前の記憶が蘇った。
「ナツ、まふゆ。お母さんねぇ、今日もまた凄い魔物をやっつけたのよ! お母さんって強いでしょーっ! ははははっ!」
「お母さん、凄い! まふゆ、お母さんって本当に強いね! ははははっ!」
「あたしたちのお母さんは世界一強いよね、ナツ! ははははっ!」
保育園の門を抜けて夜道を歩く五歳のナツとまふゆは、母の両腕にそれぞれ絡みついて楽しそうに笑っていた。ナツとまふゆの母はダメージ加工のジーンズにパーカーを着ており、フードを被った頭部は額に包帯が巻かれ、左頬にはガーゼを貼り、右掌にも包帯が巻かれていた。まふゆは、自分の小さな左手と繋がれた母の右手の包帯を見つめて言った。
「お母さん、また怪我したの? 痛い?」
「はははっ、平気だよ! お母さんはね、世界一強いから、こんな怪我どうってことないのよ! お母さんはめちゃめちゃ強い魔物をいっぱいやっつけて、お金をいっぱい稼いで、ナツとまふゆには絶対に不自由はさせないからね! きっと天国にいるお父さんも今頃安心して笑ってるよ!」
「俺も大きくなったら魔物と闘う! お母さんと一緒に闘うんだ!」
「ナツ、ずるーい! お母さんと一緒に魔物と闘うのはあたしーっ!」
「はははっ。じゃあ、三人で一緒に闘おう! ナツとまふゆは、まず、ひいじいちゃんに神伝霊術を習わなくっちゃ! あたしも子どもの頃に、ひいじいちゃんから神伝霊術を習ったんだよ! 三人で魔物をいっぱい倒して、お金をいっぱい稼ごうか! きっと大金持ちになれるよ、はははっ」
まふゆは母とナツと一緒に楽しく笑いながら、手を繋いで夜道を歩いて行った。
『あたしはお母さんが大好きだった。いつも明るく楽しそうに笑うお母さんの笑顔が、笑い声が、いつも傷だらけの温かい手が大好きだった。物心つく前にお父さんが亡くなって、三人で狭いアパートで暮らしで、毎日長い時間保育園に預けられていたけど、それでもあたしは幸せだった。きっとナツも同じだよね。あの頃のナツは明るくて、いつも楽しそうに笑っていたよ』
「じゃーん! ナツ、まふゆ、このお家どう?」
五歳のまふゆは、ナツと母と一緒に家具や電化製品が置かれているモデルハウスのリビングにいた。母はウェーブがかかったセミロングの髪で、額と右手に包帯を巻いて左頬にガーゼを貼った姿で楽しそうに笑っていた。
「お母さん、このお家、すごく綺麗でお洒落っ! 俺たち本当にここに住むの?」
「そうだよーっ! このお家があたしたちの新しいお家になるんだよ! ナツのお部屋もまふゆのお部屋もあるんだよーっ! 気に入った? ははははっ!」
「あたしのお部屋―っ? やったーっ! ありがとう、お母さん!」
「来月にこのお家に引っ越すからね! このお家でいっぱい遊んだり、ご飯食べたりしようね! ははははっ!」
「あたし、めっちゃ楽しみーっ!」
「俺もーっ!」
三人は新しい生活への期待に胸を膨らませながら、楽しそうに笑った。
『でも、あたしたちがその家で暮らすことはなかった。たった一日さえも……』
空が薄暗くなった夕方の保育園のプレイルームで、まふゆはナツと一緒に、ソフトブロックを組み合わせて大きな家をつくっていた。ほとんどの園児はすでに降園しており、プレイルームに残っている園児は他に三人しかいなかった。
「ナツ、とうとう明日、新しいお家にお引越しだねーっ! ははははっ!」
「楽しみでたまんないよ! ははははっ!」
「ナツくん、まふゆちゃん」
若い女性の保育士がナツとまふゆを呼びに来た。
「あ、お迎えだよ、ナツ!」
「お母さんだーっ!」
まふゆとナツが喜びながらリュックサックを背負って玄関へ行くと、スーツ姿の中年男性が血の気のない顔で立っていた。まふゆが中年男性に話しかけた。
「あれ、おじいちゃん? お母さんは?」
「お母さんがお迎えに来られなくて、おじいちゃんが代わりに来たんだよ。さあ、帰ろう」
祖父は寂しそうに力なく笑った。
まふゆとナツは祖父が運転するミニバンの後部座席に座っていた。ナツが祖父に訊いた。
「あれ? この道、おじいちゃんのお家へ行く道だよね? お母さんはどこ?」
「お母さんは……、おじいちゃんのお家で待ってるよ……」
祖父は前を向いたまま、言葉を詰まらせて答えた。
「まふゆ、お母さんがおじいちゃんのお家にいるってことは、引っ越しのお祝いかなあ?」
「きっとそうだよ、ナツ! きっとびっくりパーティーをするんだよ! ナツ、あたしたちは全然知らなかった~って言って、びっくりしてあげようよ!」
「そうだね~。びっくりしてあげないとお母さん可哀想だもんね〜」
まふゆとナツは声をひそめて楽しそうに笑った。
祖父の家で二人を待っていたのは、居間の隣の和室で冷たくなって横たわる母の姿だった。その横には座り込んで泣いている祖母がいた。
「おばあちゃん、どうして泣いてるの? おかあさんはどうして寝てるの? どこか具合悪いの?」
まふゆが祖母に近づきながら、不思議そうに尋ねた。
「まふゆ、ナツ……、お、お母さんは……遠くに行ったんだよ」
「お母さん、そこにいるよ。どこにも行ってないよ。なあ、まふゆ」
不思議な顔で母と祖母を見つめるまふゆとナツの肩に祖父が手を置き、肩を震わせた。
「お、お母さんは……、お父さんのところへ行ったんだよ」
「でも、お母さん、ここにいるもん! ここで寝てるもん! ねぇ、ナツ!」
「お母さんは……、体を置いてお父さんのところへ行ったんだ」
祖父は体を震わせながら、やっとのことで言葉を絞り出し、その目からは涙が溢れた。
「お母さんはここにいるもん! ねぇ、お母さん起きて! 一緒にお家に帰ろう! ねぇ、お母さん!」
まふゆは母の隣に膝をついて母の体を揺すった。ナツもまふゆの隣で一緒に母の体を揺すった。
「お母さん! ねぇ、早く起きて!」
「お母さん、どうして起きてくれないの? あたしもナツもお母さんが起きるのを待ってるんだよ!」
祖母は俯きながら体を震わせて嗚咽を漏らし、祖父は力なく床に座り込んで涙を流し続けていた。
「ねぇ、お母さん! 起きて! お母さん! お母さん!」
まふゆとナツは泣きながら、いつまでも母の遺体を揺すり続けた。
『お母さんが目を開くことは二度となかった。あたしが大好きだった楽しそうに笑うお母さんの笑顔を見ることは二度となかった。大好きだった笑い声も……』
火葬場で移季節神社の神主が祭詞を奏上しており、そこではまふゆとナツの母の遺体が白装束を着て棺に納められていた。喪服を着た祖父と祖母が棺に玉串を奉じ、まふゆとナツは何が起こっているのかわからない様子で、保育園の制服を着てそばに立っていた。
まふゆが祖父に訊いた。
「お母さんはどうなるの?」
「お母さんはもうこの体にはいないんだ。この体はね、お母さんが今まで使っていた入れ物なんだよ。この体はもうお仕事が終わったから、今までありがとうって感謝して燃やしてお別れするんだ」
「燃やす……? ……嫌だあああああああああああっ! お母さんは絶対に起きるもん! もうすぐお母さんは起きるんだもん! 一緒に新しいお家で暮らすんだもん! 一緒に暮らすんだもーんっ!」
「俺たちはずっとお母さんと一緒にいるんだああああああああああっ!」
まふゆとナツは泣きながら、祖父に向かって叫び続けた。
『あたしはお母さんが絶対に目を覚ますと信じていた。その時のあたしにとって、奇跡を信じることがたった一つの心の支えだった。お母さんを火葬することで、あたしの心の支えは無残に打ち砕かれた』
火葬場の和室で正座している祖父が、泣き疲れて眠ったまふゆとナツの頭を悲しそうに撫でていた。祖母は部屋の隅で正座をしたまま、壁にもたれて放心状態になっていた。移季節神社の神主が、ハンカチで涙を拭いながら祖父に尋ねた。
「一体どうしてこんなことになったんだい?」
「お父さん……。お父さんも知っているように、あいつはナツとまふゆが一歳の時に夫を亡くし、私たちは一緒に暮らそうと提案したけど、昔から頑固で人の世話になることが嫌いなあいつは、それを拒んだんだ。生活費の援助も断って、色んな仕事を掛け持ちして生計を立てていた。
数日前、私が会社に出勤している時に、黒いスーツに黒いサングラス姿の女が私の家にやって来て、妻に『あなたの娘さんは魔物との闘いでお亡くなりになりました』と言ったんだ。妻は新手の詐欺だと思って女を警戒したけど、黒いサングラスをかけた二人の男が玄関の中に大きな木箱を運んできて、その中には冷たくなったあいつの体が納められていた。妻が驚いて娘の遺体に呼びかけている間に、連中はいなくなったそうだ。あいつの胸や腹には何かを刺された傷痕が十六箇所もあり、死因が普通ではないことが明らかだった。なのに、警察に相談しても、なぜか単なる事故死だとして何も調べてくれなかった。そして、あいつのアパートを調べると、三百万円が毎月一回、合計三十三回振り込みされている銀行預金の通帳があったんだ。その大半が最近引き出されていた。あいつは宝くじに当たって家を買ったって言っていたけど、何か危ないことに手を出していたらしい。
私は真相が知りたくて、インターネットで検索を続けたんだ。そして、ある都市伝説を紹介したサイトを見つけた。そこには魔物と人間が闘う地下イベントがあると書かれていた。その闘いは世界中の大金持ちが会場や生中継で観覧していて、勝敗に大金を賭けているそうだ。そして、闘いのルールは相手を死なせたら勝ちだという。時折、対戦中に食い殺される人間の選手もいるけど、その光景を目にした観客たちは、興奮して大喜びするそうだ。選手の補充のために、高い身体能力や特殊能力などを持っていて経済的に困っている者が、賞金を餌にして言葉巧みに勧誘されるらしい。最近では、ハルカという人間の選手が魔物に三十三連勝をしていたけど、とうとう魔物に体中を串刺しにされて命を落としたと書かれていた……。ハルカというのは、あいつ……春香だったんだと思う。私が発見したそのサイトは次の日には削除されていた。
あいつは地下イベントに参加して魔物に殺されたに違いない! 私は悔しいよ。あいつが、春香が魔物との闘いに参加するほど経済的に困っていたなんて。春香が援助を拒んでも、父親としてしてあげられることがもっとあったのではないかと思ってしまうんだ」
祖父は大粒の涙を流して声を荒らげた。
「私は春香の命と人生を奪った魔物が憎い! ナツとまふゆから母親を奪った魔物のことが憎くて、憎くてたまらないんだ! お父さん、何で……、何で魔物なんてものが存在してるのかな? 魔物さえいなければ、こんなことにはならなかったのに。この世に魔物さえいなければ、たとえ慎ましい生活だとしても、春香はナツとまふゆと一緒に生きていくことができたのに……」
「お前の気持ちはよくわかるが、魔物だから悪い訳ではないんだよ。私やもっと前の代の人たちは、友好的な魔物の座敷わらしと一緒に仲良く育ったんだよ」
「お父さん、私は今ではこの世界に魔物は必要ないと思っているよ。魔物なんてみんな消えて失くなればいいんだ! 私は神社を継ぐことも、神伝霊術の修行を続けることも拒否して、それを許してくれたお父さんには感謝しているよ。でも、今は……、今だけは、神伝霊術の修行を投げ出したことを後悔している。できることなら、私のこの手で春香を殺した魔物を……、いや、この世に存在する全ての魔物を葬り去ってしまいたい! 私から大切な娘を奪った魔物など、ナツとまふゆから母を奪った魔物など、私はこの世から一体残らず消し去ってしまいたいんだ!」
祖父は神主に向かって大声で叫ぶと、俯いて咽び泣き続けた。
その時、祖父の膝元では、ナツとまふゆが両目を大きく見開いて全ての話を聞いていた。
『あたしとナツは、お母さんの命を奪った魔物を探し出して仇をとること、そして、魔物という存在を世界中から一体残らず消し去ることを心に誓った。あたしとナツは、おじいちゃんの家で暮らすことに激しく抵抗し続け、ひいじいちゃんと一緒に移季節神社で暮らすことになった。それはあたしとナツの狙い通りの結果だった。ひいじいちゃんにも、おじいちゃんにも、おばあちゃんにも秘密にしていたけど、あたしたちの行動は、ひいじいちゃんから神伝霊術を習うことが目的だった。そして、あたしたちは魔物への復讐心を隠して、ひいじいちゃんから神伝霊術を学んだ。
高校進学とともに、あたしたちはおじいちゃんの家で暮らすようになり、あたしとナツはSNSで魔物の情報を集めて、学校の休みを利用して密かに魔物を倒して回った。あたしとナツは、これまでに百八体の魔物を葬ってきた。あたしはこれからも、ナツと一緒に魔物を倒し続けるんだ。あたしたちからお母さんを奪い、お母さんから命と人生を奪った魔物に復讐を遂げ、そして、魔物という存在がこの世から一体残らずいなくなるその日まで』