第二話「狐面の少年、再び現る」
山裾の小道を歩いていたとき、灯守はふと、誰かに呼ばれた気がした。
けれど、振り返っても、そこには風しかいなかった。
晩秋の風はすでに冷たく、木々の葉をくるくると巻き上げながら、遊ぶように道を渡っていく。
あたりには人の気配などない。
それでも、彼は確かに“呼ばれた”と感じた。
それは、耳で聞いたのではなく、胸の奥にぽつりと灯された感覚だった。
灯守は、旅帳を抱えて、風の吹く方角へと歩き出す。
その歩みが、やがて“彼”へと繋がっていることを、このときの灯守はまだ知らなかった。
狐面の少年に出会ったのは、本編の第四十話「狐のうたげ」のときだった。
山奥の稲荷社で、祭りの夜を彷徨っていた少年は、言葉を失い、記憶を持たず、ただ“名を探して”いた。
灯守は、彼に名前を贈り、短い逢瀬のあと、それぞれの道へと別れた。
それから幾年。
もう二度と会うことはないと思っていた――
しかし、それは思い違いだった。
山道を抜けた先に、小さな茶屋の廃屋があった。
かつて、山参りの者たちが一息つく場所だったらしい。
すでに営業はしておらず、軒先には蜘蛛の巣が張り、落葉が積もっている。
けれど、その木戸の隙間から、ふいに誰かの気配が滲んだ。
灯守が近づこうとすると――音もなく、狐面の少年が姿を現した。
「……ひさしぶりだね、おじさん」
その声は、あのときよりも少し低く、けれど確かに、あの夜に聞いたものだった。
「名を、もらったはずだったのに。ぼくは、またそれを落としちゃった」
「……どうして?」
「忘れられちゃったから。
ぼくのことを“呼んでくれた”人たちは、もういないみたい。
だから、ぼくもまた、名前のないものになったんだ」
少年の目には、悲しみよりも“諦め”のような静けさがあった。
人に忘れられることは、存在の輪郭を曖昧にする。
それがどれほどに、残酷で、冷たいことか。
灯守はゆっくりとしゃがみ、少年と目線を合わせた。
「なら、また名を贈ろう。何度でも」
「いいの?」
「ああ。君がそれを“受け取ってくれる”限り、僕は何度でも呼ぶよ」
灯守は旅帳を開いた。
筆先に、いつもより慎重にインクを含ませる。
ページの隅に、小さく、こう記す。
『陽狐』――光をともす、野の狐
「ひこ、か……」
少年は、何度もその名を呟いた。
そのたびに、狐面の奥から、わずかに表情が綻んでいくのが見えた。
やがて彼は面を外した。
そこには、あの夜と変わらぬ、けれど少しだけ成長した少年の面差しがあった。
冷たい風のなか、彼は目を細め、言った。
「ねえ、おじさん。
この名前は、ぼくがぼくだと知るための、光みたいだ。
灯してくれて、ありがとう」
風が、また木の葉を連れて通り過ぎていった。
落葉が舞い、彼の背に黄金色の残像を描いていく。
その姿は、まるで、どこか遠くへ旅立つようだった。
「ぼく、行くね。今度こそ、自分の足で」
「……気をつけて、陽狐」
「うん。また、“忘れそうになったとき”には、呼んでね」
そして彼は、また風のように去っていった。
だが今度は、消えるのではなく、歩き出す足音を確かに残して。
《旅帳・拾遺録:その二》
「名を贈ることは、光を渡すこと。
それが灯りになるならば、たとえ何度でも繰り返そう。
名は、人を照らし、記憶に咲く野の灯となる。」
あとがき
本編第四十話「狐のうたげ」で登場した狐面の少年――
読者の方々から「もう一度出会いたい」との声を多くいただいたことを受け、
この『拾遺譚』で再会の一編を描かせていただきました。
誰かを“呼ぶ”こと、名を“覚えておく”こと。
それは何よりも、確かな生の証なのかもしれません。
「いいね」や「フォロー」が、次の物語をつなぐ“光”になります。 感想を通して、皆さまの“声”を旅帳に記したいと思います。




