第一話「あの郵便局のカウンターで、もう一度」
郵便局の扉が開く音がした。
それは、灯守が旅を終えて三年が経った秋の午後のことだった。
木造の平屋の影に、低い雲と、冷えた風が重なっていた。
だが、音が鳴ったにもかかわらず、そこには誰の姿もなかった。
局内にはいつものように人気はなく、空気が音を吸い込んで、静寂だけが残っていた。
――おかしいな、と、彼は思った。
灯守はこの場所を“もう一度”訪れていた。
あのとき、旅帳の最後のページを記したあの夜から、時が止まったように変わらぬこの場所。
だが、今日は何かが違っている。
受付のカウンターには、一通の封筒があった。
風も吹いていないのに、それはちょうど彼の前に滑り出していた。
差出人:匿名
宛先:「未来の灯守へ」
灯守は息を呑んだ。
“未来の灯守へ”――それはつまり、“今の自分”のことだ。
だが、彼は誰にも、この郵便局の存在も、旅のことも話していない。
旅帳さえも、自宅の机の引き出しの奥にしまいこんだままだ。
にもかかわらず、この場所を知り、手紙を宛ててきた者がいる。
それは、ある種の奇跡に近かった。
封筒は、少しだけ湿っていた。
雨の気配はない。けれど、封の端に残ったにじみは、まるで“涙”のようだった。
手紙は、ごく短い文章で綴られていた。
「灯を守るひとへ。
あなたが拾い集めた声たちは、
今もわたしたちのなかで、静かに息をしています。
あの夜、風鈴が鳴ったとき、
確かに、“さよなら”は“はじまり”になりました。
だけどね。
もうひとつだけ、どうしても残ってしまった“声”があるの。
その子は、まだ“呼んでもらえていない”の。
お願い。
もう一度だけ、この郵便局から旅に出て――
声にならなかった声を、聞いてあげて」
灯守はしばらく、その紙を見つめていた。
筆跡は、知らないものだった。
けれどその文体、その選ぶ言葉の温度に、どこか見覚えがある気がした。
これは“澪”の言葉だ、と彼は確信した。
もしくは――澪の声に、どこかで触れたことのある誰かが、綴ったもの。
灯守は、ふっと口元を緩めた。
自分はもう、“旅を終えた”と思っていた。
けれど、そうではなかったのだ。
本当の旅は、これからが始まりなのかもしれない。
声にならない声。
呼ばれることを知らなかった存在。
百の物語のあとにあるのは、きっと“ひとつでは終わらない命の響き”。
そのとき、郵便局の奥から、小さな足音が聞こえた。
――コツ、コツ。
音は、薄暗い廊下の奥から続いてきていた。
灯守は立ち上がり、旅帳を抱え直した。
そして、ゆっくりとその足音のほうへ歩き出す。
影の向こうに、小さな背中が見えた。
「ねえ、おじさん。声を読んでくれる?」
少女の声は、震えていた。
だけど、そこには確かな“希望”があった。
灯守は頷いた。
そして、新しいページを開く。
《旅帳・拾遺録:その一》
「声にならなかった祈りは、風のようにさまよう。
けれど、誰かがそれを読んでくれる日を、きっとずっと待っている。
だから、言葉にならない想いにこそ、耳を澄ませよう。
そのとき、世界はもう一度、名もなき誰かを迎えに来る。」
あとがき
『灯影拾遺譚』へようこそ。
本編をお読みいただいた方も、ここから出会う方も、心より感謝いたします。
“もうひとつの灯影”、まだ声にならなかった想いたちの物語を、これから少しずつ紡いでまいります。
静かな場所で、眠る前に、そっと読んでいただけたら嬉しいです。
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感想や印象も、いつでもお待ちしております。




