あなたが、もういないということ
わたしは、別に悲しくなかったのだと思う。
両親がわたしに振り向かなかったことも、妹ばかりに甘く接し、わたしの小さな成功には目もくれなかったことも、そういうものなのだと、どこかで納得していた。
人は、それぞれに光のあたる角度がある。妹の頭上に降り注ぐ光は、わたしには最初から用意されていなかっただけ。そう思うことで、わたしはうまく呼吸を保ってきたのだと思う。
それに、わたしにはグリがいた。
あの子は血統書の猫というわけではない。母がある日、わたしの誕生日を忘れていた埋め合わせに、ふらりと通りがかった市場の路地裏で買い求めた猫だった。
灰色の、ふわふわとした毛並みの長毛種。何の感慨もなく手渡された小さな毛玉。
でも、わたしは一目で恋に落ちたのだと思う。
そういうのって、案外すとんと胸に落ちる。
グリは、わたしの話をよく聞いてくれた。
もちろん、猫が言葉を理解するとは限らない。でも、わたしが昼食会でどんなふうに他の令嬢たちに笑われたかとか、あの茶色い目の婚約者が妹に手紙を送っていたのを偶然見てしまったこととか、そういう話をしても、グリはわたしの膝の上でぴくりとも動かず、ただしんとした目で見つめてくれた。
それだけで良かった。誰にも求められないわたしを、グリは見捨てなかった。
あの子がまだ小さい頃は、毎日まるで弾かれたように部屋を走り回っていた。
昼でも夜でも関係なく、気が向けばカーテンに飛びつき、ソファの背にのぼってから一気に飛び降りて、わたしの足元をかすめて駆け抜けていく。あの子の毛がふわりと舞って、床に落ちたときの、静かなきらめきを、わたしはいまでも覚えている。
羽根飾りのついた扇子をふると、目を輝かせて跳びかかってきたし、机の上のペンや紙片を次々に落とすのが、どうにも気に入っているようだった。
そのたびに、使用人には怒られたけれど、わたしは笑っていた。グリがいるだけで、わたしの部屋は世界のどこよりもにぎやかで、生きている感じがした。
――けれど、気づけばグリは、あまり跳ばなくなっていた。
羽根飾りを揺らしても、横目でちらりと見上げるだけで、また目を閉じてしまう。
カーテンには飛びつかず、代わりにその影でじっとしている時間が増えた。廊下に響く足音にも反応せず、わたしが呼んでも、返事が少し遅れるようになった。
昼のうちに何度も走り回っていたのが、今ではほとんど寝ている。しかも、お気に入りだった窓辺のクッションや、絨毯の上ではなく、いつも暖かい場所を選んで。
火の落ちた暖炉の余熱のそばや、日がよく当たる柱の根本。そういう、静かでぬくもりのある場所に身を寄せるようになった。
グリは、そうして眠ってばかりいるようになっても、わたしが近づけばそっと目を開けた。眠たい目でわたしを見上げて、軽く尻尾をふる。それだけで、十分だった。
話しかけると、のどを小さく鳴らして、何かを思い出すように、わたしの指先に顔をすり寄せてきた。
あるとき、いつものようにリボンを垂らしてグリの前にしゃがんでみた。でもグリは、それを見つめるだけだった。前なら跳びついてきたはずなのに。
ただ視線だけが、昔と同じようにやわらかく、真っ直ぐだった。
あの子の中では、きっと何も変わっていないのだと思う。走れなくなっても、跳びつけなくなっても、わたしを見つめる目だけは、子猫の頃と同じだった。
だから、わたしも変わらなかった。朝起きて「おはよう」と声をかけ、夜は「おやすみ」とそっと毛を撫でる。そのどちらにも、グリは応えてくれた。昔よりずっとゆっくりと、けれど確かな、重みとぬくもりで。
そうしてわたしたちは、穏やかな時間を、少しずつ少しずつ、積み重ねていたのだ。
まるで、それが永遠に続くかのように。
でもある日、日向ぼっこをしていたはずのあの子は、もう動かなくなっていた。暖かな陽射しの中で、まるで夢を見ているみたいな顔だった。わたしは抱き上げて、名前を何度も呼んだけれど、グリは帰ってこなかった。
そのとき、わたしは初めて「悲しい」という感情を、心の奥に感じた。両親に愛されなかったことよりも、妹に婚約者を取られたことよりも、ずっと深くて、ずっと真っ直ぐで、言い訳のきかない哀しさだった。
そういうものなのだ。人間より先に、猫が教えてくれることがあるなんて。
部屋の窓辺に陽がさすたびに、そこにグリの背中があるような気がする。けれど、振り返っても何もいない。ただ光が、静かに揺れているだけ。
グリがいなくなってから、部屋は少しだけ広くなった。
いや、実際の広さは変わらないのだけれど、なにか、大切なものがぽっかり抜け落ちてしまったような、そういう感覚が、部屋の隅に立ちこめていた。
カーテンの隙間から差し込む光のかたちすら、どこかぎこちない。椅子の脚が床にきしむ音も、前よりもずっと響くようになった。こんなにも、ひとつの命が、静けさを変えてしまうのだと知ったのは、グリがいなくなったその後だった。
妹はその頃、あの人と幸せそうに笑っていた。わたしの前では少し気まずそうに目を伏せていたけれど、それもすぐに慣れた様子で、まるでわたしなど最初からいなかったかのように、物語を進めていった。
けれどわたしは、何も感じなかった。ただ、グリの毛がまだカーディガンに絡まっているのを見つけるたびに、胸の奥がきゅっと縮こまるような思いがした。
昼下がりの紅茶の時間。昔はグリが足元にいて、ふわふわのしっぽでわたしの足を軽く打ったものだった。
それが気に入って、わたしはわざと長いスカートをはいていた。そのときの感触を、わたしの脚は今でも覚えている。
今は誰もいない。スカートの裾を動かしてみても、そこにはもう何も触れない。ただ布が、空気をゆらすだけだ。
ときどき考える。もしわたしが本当に悲しかったとしたら、それはきっと、誰かに愛されなかったからではない。誰かに奪われたからでもない。
グリがもういないという、たったひとつの事実だけが、わたしの心を痛くさせるのだ。
それだけで十分なのだ。
人の気持ちというのは、きっとそんなに多くを抱えられないようにできているのだと思う。ひとつの哀しみが深ければ、他のものは自然と沈黙していく。まるで静かに降る雪のように、音もなく、やわらかく。
わたしはそれを、赦すことにした。
両親の不在も、妹の笑顔も、あの人の沈黙も。すべてを赦して、ただ、グリのことだけを、心の中に残す。
たったひとつのあたたかさとして。誰にも見せない、わたしだけの秘密の場所に。
そこには、陽だまりの匂いと、灰色のやわらかな毛並みと、甘えるような喉の音がある。
今は、グリの名を声に出して呼ぶことはない。そういうことをしてしまうと、まるで彼が本当にいなくなったと認めてしまうようで、わたしにはまだそれができない。
名前には魔法がある。呼べば応えてくれるという希望と、呼んでも応えが返ってこないという現実の間に、人は立ち尽くすしかない。
だからわたしは、ただ部屋の中でじっとしている。
古びた絨毯の上、グリがいつも寝転がっていた場所の近くに椅子を引き寄せて、紅茶を飲む。少しぬるくなったミルクティーの味は、あの頃とまるで変わらないのに、不思議と、舌の上にぽつりと寂しさだけが残る。
誰かに話せば、きっと笑われる。猫がいなくなったくらいで、どうしてそこまで、と。だけどわたしにとっては、グリこそが、世界の秩序だったのだ。
朝目覚めれば、枕元で香箱をつくって待っていてくれる存在。冷たい冬の日には、湯たんぽよりも温かく、優しい重みをもって、わたしの足元にいてくれる存在。
人は平等じゃない。ましてや、愛される重さなど、天秤にはかけられない。わたしにとっての「唯一の証明」が、彼だった。
わたしは今も、グリの毛をひと房、小さなガラス瓶に入れて、机の引き出しの奥にしまってある。
誰にも見せないし、見せたくもない。誰かと分かち合うための記憶ではないのだ。これは、わたしがわたし自身であるための、ひとつの錘だ。
外の世界で何を言われようとも、家族にとってどうでもいい存在だったとしても、あの猫だけはわたしを選んでくれた。寒い夜、膝の上を選ぶその瞬間ごとに、彼は何度もわたしに「あなたがいい」と言ってくれた。
だからわたしは、今日もまた静かに日記を書く。言葉を選びながら、彼のぬくもりの記憶を指先に滲ませるようにして。書くことで、少しだけ呼吸が楽になる。誰にも渡さない、わたしだけの祈りのようなもの。
人は誰しも、何かひとつだけを信じて生きているのだと思う。
わたしにとってそれが、家族でも恋愛でもないことは、ずっと前からわかっていた。そう、わたしは悲しくなんかなかったのだ。
本当に悲しいことは、たったひとつ。グリがもう、どこにもいないということ。ただそれだけだった。
そして、きっとこれからもわたしは、何事もなかったかのように立ちふるまって、社交の場にも顔を出し、妹の婚約披露の席では微笑んでさえみせるだろう。
でもその笑顔の下にある、小さな灰色の記憶を、わたしは誰にも渡さない。それは、誰のものでもない、わたしだけのグリなのだから。
夜になって部屋に戻ると、服を脱いで、髪を解き、窓辺に腰掛けた。外では風が強く吹いていて、庭の薔薇がざわざわと揺れていた。
あの風の中に、グリの姿が見える気がした。──もちろん、幻覚だ。それでもわたしは、そっと目を閉じて、その気配を胸の奥に迎え入れた。
「おかえり、グリ」
そうつぶやいた声が、夜の静けさに吸い込まれていった。
明日になれば、また世界はわたしのことを忘れるだろう。
けれど、それでもいい。
わたしは忘れない。わたしの世界では、グリが生きている限り、わたしも生きていける。静かで、寂しくて、でもちゃんと温かい、そういうふうに。