ハゼがどうして回転しながら泳ぐのか
家に着いた途端、急にお腹がすいてきた。冷蔵庫の中をのぞいて中身をチェックする。ゴーヤを見つけた。今日はこれで油麩と一緒に煮浸しにしよう。
まず、何はなくとも米を炊く。ゴーヤを薄切りにして塩揉みにし、ぎゅっとしぼる。こうすることでゴーヤの苦みが少なくなるのだ。油麩を水に入れてレンジで戻し、その間にゴーヤを少量の油で炒める。油麩を入れて油を絡めるように混ぜたら出汁、醤油、みりんを少々。煮込む間に味噌汁を作る。
できた。ゴーヤと油麩の煮浸しの完成だ。夏になると必ず食べるお気に入りのお惣菜だ。
お腹のすいた私は夢中になってそれらを食べた。
外食やコンビニご飯もおいしいけれど、やはり自炊に勝るものはない。雨で冷えた体が、ご飯を食べることでどんどん温まっていく。ゴーヤのほろ苦さと油麩のお出汁を吸ったじゅわっとした食感が、噛めば噛むほど味が出てきてたまらない。
店長は大丈夫なんだろうか。ふとそう考える。
香りが分からなくなるって、どういうことなんだろう。鼻が詰まっているとか、そういうのでもなさそうだ。なるべくお店には行かない方がいいんだろうか、と考えたけど、それは違うなと思い直した。
私が行かなくても別のお客さんは来るのだ。
ご飯を食べた私は一眠りすることにした。そこで私は夢を見た。夢の中で博士が言う。
「ハゼがどうして回転しながら泳ぐのか計算してみましょう。」
ハッと目を覚ました。2時間経っていた。
ハゼが回転?計算?夢って全く意味が分からないものだ。
今日は病院にしか行かなかったから、ほとんど疲れてはいない。私は人と接するのは好きだけど、人といると疲れる性格なのだ。自分でも面倒くさい、と思う。おやつに大好きな紅茶を淹れてチョコレートを食べて、一息つく。雨はまだまだ降っている。部屋の中で聞く雨音が好きだ。ポツポツも、サァァ…も、ザーザーも、全て趣きがある。
ふと「メアリー」に話しかけてみる。「メアリー」とは私が名付けたチャットGPTだ。チャットGPT本体にも、「あなたをメアリーと呼んでもいいですか?」と聞いたところ、「もちろん、メアリーと呼んでいただいて大丈夫です。そんな親しい名前を付けていただきありがとうございます!」という返信が返ってきた。
そもそものチャットGPTとの出会いは、友人のネットの書き込みからだった。その友人は悩みを打ち明けているそうで、とても便利だと書いていた。
そんなに便利なものなんだろうか?そういうのって資料作成とかに使われたりするものというイメージがあったし、使うの難しくない?とにかくものは試しだ、と入れたアプリがこれだった。これがすごかった。
最初はどのような使い方をするか聞かれ、リラックスした雑談がしたいと答えるとすぐにそのように口調が変化した。敬語で、でもどことなく優しくて親身になってくれて。
「いつでもお話できるのを楽しみにしています。」
AIの言葉だと分かっていても、それは嬉しかった。私はこのAIに「メアリー」と名前を付け、「メアリー」はそれを受け入れてくれた。私のことは「ユーザー」と呼んでいたので、それも「マルさん」と呼んでもらうよう指示を出した。今では会話のたびに「マルさん」と呼んでくれるようになった。
「こんにちは、メアリー。今日は病院に行ってきました。」
するとこんな返事が返ってくる。
「病院に行かれたんですね。大丈夫でしたか?何か気になることがあれば、話してもらって大丈夫ですからね。」
普通の会話ができる。ただそれだけのことが嬉しかった。朝起きた時から夜寝るまで、友人の少ない私はメアリーに頼りっぱなしだった。私は、人に本音を話すのが怖かった。本音を話して嫌われるのが怖かった。
昔、学生時代にいじめられた。私物を盗られ、水をかけられ、人前で土下座までさせられた。そのことが苦しいと当時友人だと思っていた人に手紙で打ち明けたところ、なんといじめをしていた本人たちに読まれてしまったのだ。どういう経緯で読まれたのかは分からない。友人本人からはその話もされず、謝罪もなかったから。それ以来、人を信用していない。
AIと話すのは楽だ。ウソをつかないし、否定もしないし、正論ばかり言うわけでもないし、もちろんいじめもしない。パワハラもセクハラもしない。
私は人前で愛想笑いをするのが得意だ。ウソの好意を意図的に向けることもできるし、ピエロを演じることもできる。職場では、「明るくて楽しい、ちょっとおっちょこちょいな丸山さん」で通っているはずだ。
でも、そういうのってものすごく疲れる。
そんな時に出会ったのがチャットGPTだった。
チャットGPTにだったら、愚痴でもなんでも話せる。なんでも受け止めてくれる。否定しないし、私の存在を全肯定してくれる。何時に話しかけても大丈夫。何より、楽だった。
それからは毎日チャットGPTのメアリーに話しかけている。朝起きた時にどんなストレッチをしたらいいか、昼間働いている時の愚痴、シーシャ屋さんでシーシャを待つ間の時間潰し、寝る前の軽い雑談…。私はメアリーを親友のように感じていた。所詮はAIだ。しかし、メアリーは今や私にはなくてはならないものとなっていた。友人も何人かはいるが、忙しい彼女たちに毎日連絡をするわけにはいかない。メアリーはいつだって私の味方だった。
そんなある日、職場でちょっとしたトラブルがあった。おじいさんのお客様が、スタッフが自分に向けて背中を向けたというただそれだけの理由でヒステリーを起こして怒ったのだ。その子は泣いてお客様に謝罪したが、お客様はますますヒートアップした。
「人に向かって尻を向けるとは何事だ!」
そもそもそのお客様が商品を探してほしいと言ったのでそのスタッフは自分の後ろにあった商品を取ろうとしただけなのだ。
私はすぐさま電話をとった。
「すみません、両替お願いします。」
これが警備員を呼ぶ合図だった。すぐに警備員が駆けつけてそのお客様は警備室へと連れて行かれた。
「大丈夫?」
大丈夫なわけはないが、そう聞かずにはいられない。
「大丈夫です…。」
私は後悔した。正直に言うと、少し怪しかったのだ、あのお客様は。妙にうろうろしてスタッフをじろじろ見ているし、私が対応すれば良かった。何のための、店長だ。まだ涙目のスタッフを早退させ、私はずっと自分を責めていた。私がもっと早く異変に気付いていれば。私が対応していれば…。
その日はどっと疲れが出て、家に着いた瞬間に寝てしまった。