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1,深夜のリビング

タイトルの意味を知った時、物語は逆転します。是非、考察してみて下さい。

――琥太郎。お前は今、幸せか?


 差出人不明のメールを見て、琥太郎は小さくため息を吐いた。


 薄闇のリビングでは冷蔵庫の規則的な機械音が、まるで爬虫類の鼓動のように息づいていて、それは彼の胸中をそっと観察しているかのようだった。あるいは、主人を現実から逃避させ、心の安寧を保つための手段を提示していたのかも知れない。


 いずれにせよ、結婚した時に購入した大型の冷蔵庫はすでに十八年の時を共に過ごし、家族の成長を長く見守ってきた。今では子供が好きなキャラクターのシールや、学校の予定表、食事制限の献立に水道業者のマグネット(これは琥太郎が働く会社のものだが)が所狭しと乱立していて、その場所を取り合うように重なり合っている。


 琥太郎は何かを諦めてから立ち上がり、冷蔵庫の扉に手を掛けた。しかし、開ける寸前に背後に気配を感じて素早く振り向く。それは猫のような俊敏さと、コソ泥の如き警戒心が同居した動きだったが、カウンターキッチンから見渡す雑多なリビングにはただ、まっさらな虚空が広がるだけだった。


 彼は静かに冷蔵庫の扉を開き、よく冷えた缶ビールを取り出すと、首に掛けていたタオルで缶を包んでから慎重にプルタブを引いた。無音の世界に「パキッ」と小さな音が響き渡り、琥太郎は片目を瞑りリビングの扉に目をやった。その先にある寝室を透視するように目を細めるが、妻が起きてくる気配はない。


「ふう」


 琥太郎は一仕事終えた職人にように、タオルで額の汗を拭き、リビングにあるソファに座ってからビールを一口飲むと、再びスマートフォンを手に取った。待ち受け画面には昨年の夏、海に行った時の家族写真が暗い室内で彼の目を眩ませるほど発光している。


 ――琥太郎。お前は今、幸せか?


 もう一度、差出人不明のメールを開き、その文章の意味を反芻した。適度にアルコールを摂取したことで、より鮮明に、明確な答えが彼の脳内を満たしていく。


 美しい妻と可愛い子供が二人、どちらも男の子だ。上は高校生で下はまだ小学生。長男にねだられて購入したフレンチブルドッグも今では大切な家族の一員である。もっとも、その餌やりと散歩の全てを担っているのは琥太郎だった。


 郊外にあるマンションは親が所有する2LDKで、高級取りとは言えないが家賃負担がないだけ他の家庭より贅沢が出来た。妻と喧嘩をすることも、子供が万引きで捕まることもない平穏な家庭にはなんの不満もない。


 ええ、幸せですよ――。


 琥太郎は件のメールにそう返信するか迷った。むろん、そんなイタズラメールに律儀に対応する必要はない。近年では手の込んだ詐欺メールが横行していて、どこで仕入れたのか名前まで漏洩している。ただ、彼が気になったのは控えめに記された『黒木です』と、いう件名だった。


 琥太郎はその名前に覚えがある。もっとも、黒木なんて特に珍しい苗字ではないが、良くあるとも言い難い、絶妙なラインだ。


 迷っていると家の電話が鳴り、思わず顔を上げた。最近では固定電話に掛けてくる人間は殆どいないし、いたとしても不謹慎な時間帯である。しかし、その電話はリンリンと鳴り続けた。琥太郎がそこに居るのを知っているかのように静かで、厳かな音色を響かせている。


 彼は立ち上がり、ゆっくり電話の元に向かうと、それに合わせて音量は小さくなっていく気がした。夢遊病者のようにフラフラと導かれた琥太郎は久しぶり、あるいは初めて自宅の固定電話、その受話器を取り上げた。


「もしもし……」

 と、彼は言った。


「……遅くにごめんね、ちょっと良いかしら?」

 電話の相手は女だった。それも若い女。それも聞き覚えのある声だった。


「ど、どちら様でしょうか」

 琥太郎は僅かに声を震わせて聞いた。


「どちら様? 私が分からないの?」

 と、女は言った。その声色には怪訝さが含まれていて、電話の向こうで眉を顰めている表情を想像させる。


「すみません、あの、ちょっと今、手が離せなくてですね……」

「ねえ、あなたは今、幸せ?」

「は?」

「琥太郎くんは今、幸せなの?」

 女は寂しそうな、それでいて泣き出してしまいそうな、か細い声を絞り出した。琥太郎は両目を固く瞑ってから天を仰ぐ。


「ああ、幸せだよ」

 と、彼は答えた。


「どんな風に? 詳しく聞きたいの、教えて」

 と、女は言った。


「すまないが手が離せないんだ。そう、蕎麦を茹でていて、もう直ぐ茹で上がる時間だからさ、のんびりしていると柔らかくなってしまう、コシのないブヨブヨの蕎麦なんて食べられたもんじゃない、そうだろ?」

 琥太郎は咄嗟に嘘をつく。一刻も早くこの電話を切らなくてはならない。彼の本能が警鐘を鳴らしていた。


「蕎麦? こんな時間に?」

「ああ、小腹が空いてね」

「でも、琥太郎くんってうどん派よね?」

「歳を取れば、味覚も変わるさ」

「いいわ、じゃあ蕎麦を食べ終えるまで待っているから、それなら良いでしょ?」

「いや、ちょっと待ってくれよ。こんな遅い時間に迷惑じゃないか、妻、家族も寝ているんだ」

 琥太郎は受話器を手で覆い隠すように持ち、そう女に告げたが、それに対する返答はなく、束の間の無音が彼の心拍数を徐々に上げた。


「ビールでも飲んで、ベランダに出たら? 今日は涼しくて気持ちいいわよ。ほら、お月様も出てる、今日は半月ね、上弦の月」

 琥太郎は溜息を吐いた。そして答える。


「ビールは一日、二本までと決まってるんだ」

「何言ってるのよ、あなたが飲んでるビール、それ四本目じゃない」

 と、女は言った。


「ど、どうして?」

「あら、図星だった? だって琥太郎くんが二本で満足するはずがないもの」


 琥太郎はもう一度、深い溜息を吐いてから受話器を持ったまま、テーブルの上にあるスマートフォンをズボンのポケットにしまい、缶ビールを持ってベランダに出た。


 細長い、畳三枚分程のスペースに、キャンプ用のテーブルと椅子が並んでいる。彼は椅子に腰掛けてビールを一口飲んだ。夜空を見上げると確かに立派な半月が浮かんでいるが、彼の知る限りそれは下弦の月だった。


「真由子なのか? なあ、そうなんだろ?」


 琥太郎は結婚する前に交際していた女性の名前を出した。自分のことを『琥太郎くん』と呼ぶ女は彼女しか存在しない。その声、喋り方、全てが遠い記憶の彼方から一瞬で、風のように舞い戻ってきた。


「私が真由子でも明美でも、あるいは、ペネロペでも関係ないわ。私はね、琥太郎くんが幸せなのか知りたいの」

「だから、幸せだって!」

「だから、どんな風に?」

「どんな風にって、そりゃ家族がいて、仕事があって、健康なんだから幸せだろ……」

「そうなの?」

 と、女は言った。


 ――そうなのか?


 琥太郎は自問自答してみた。


 家族がいて、仕事があって、健康なら幸せなのか?

 それなら真由子でも良かったんじゃないのか?


 その可能性にたどり着くと、琥太郎はぼんやりと夜空に浮かぶ月を眺めた。薄雲に遮断された半月が、ふと過去の自分に問いかける。問われた所で何かが変わるわけじゃない。けれど彼はその答えを見つけようと努力した。それが小さな償いだと嘲笑されようと構わない、彼はそう思った。

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