7 語りぐさになる船出
渡航許可証を筒状にまるめてもったジェラルドを先頭に一行は湾岸事務所をあとにした。
まるで海がふたつに分かたれる神の奇蹟のように、一行の移動にあわせて人垣が左右に割れて道をつくった。
無論神秘性などかけらもない、ただ関わりあいになりたくないという敬遠である。
それでもジェラルドの口もとにはうすい笑みがたたえられ、グレアム宰相やディレンツァはまったく頓着しないといった無表情で、マッコーネルにいたっては自慢げですらある。
好奇の目にさらされることでとまどっているのは、右手でえりあしをなでながら照れているアルバートだけだった。
アルバートは「すいませんね、おさきに失礼します、えへへ」などと卑屈な商人のようになっている。
外野の男たちのねちっこい視線もいやだったけれど、ルイにとっては腰の低い王子もいやらしくみえて、いらいらした。
それでも敷地からはずれ、砂利まじりの坂道あたりになると、潮風に吹かれて少しすっきりした。
午前中は肌寒く感じた風も、陽射しによってやわらいでいた。
ルイはみずからの腕を抱えながら考える。
過程がどうであれ、難題がひとつかたづいたことは確かだった。
乗船する権利を得ただけではなく、船まで手配できてしまった。しかも船長つきだ。
アルバートの手柄でもあるのかもしれないと思うとなんとなく癪にさわる気もするけれど、指をくわえて海をみつめていてもはじまらない。
なにより先頭のジェラルドの背中が頼もしかった。
年齢は20代中盤のアルバートとさして変わらないようだが、やはり風格がちがう。
背筋はピンと伸び、腕や脚の動きが流麗で、短めのくせ毛さえも気高い――そうやって火の国の優秀な王子にみとれていると、ふとグレアム宰相の後頭部が視界に入った。
長期間、草原の国の要人として生きてきた歴史がうすい頭部にきざまれている。
しかしそれよりなによりひっかかることがあるので、ルイは目前のアルバートに小声で訊ねる。
「ねぇ、グレアム宰相さんがジェラルド王子を手助けしにきたのはわかるんだけどさ――」
「ん?」アルバートは草原の国と王都の徽章の印字された二本の旗をかちゃかちゃいわせながらふりかえる。
これらの旗は渡航中に船上でかかげなくてはならないものだ。
アルバートはあたりまえのようにその運搬係になっている。
「昨日さ、ジェラルド王子は一人で事務所にきて、なしのつぶてだって言ってたわよね」
「うん……事務所長さんたちとの交渉がうまくいかないからしきりなおすってことで、帰っちゃったんだよね」
「それでうしろだてを必要としたとして、伯爵都に支援を要請したとするじゃない? それで宰相さんが伯爵都から〈はずれの港町〉まで来訪するのって、わずか一日で可能なものなの?」
「え……」アルバートはあごをさする。「どうかな? けっこう距離はあるよね。事前調整していたとか」
「そんな根まわししてるんだったら、最初から宰相がくるのを待ってから談判するほうがかたいじゃない」ルイはくちびるをつきだす。
アルバートはまばたきをくりかえす。「そうだね」
「それにさ、一国の宰相が護衛の一人もなしに単独で外出したりするの? さいわい足腰に不自由はないみたいだけど、それでも〈鹿の角団〉なんかに狙われたら、回避するのもひと苦労じゃない?」
「――確かに」アルバートもグレアム宰相の背中をみつめる。
足どりは壮健で、ほかにさしさわりといえば事務所で話しているとき、過度にどもっていたぐらいだろうか。
それでも、刺客の出現に対応できるかと問われればどうみても難しそうだ。
「ま、湾岸事務所までの警備はジェラルド王子が請け負って、使節団は町のどこかに待機してるとか?」
「うーん……」ルイは腕組みする。
いくらジェラルドが決めたとしても、要人が要人を警衛する事態を承諾する使節団などいるのだろうか――。
しかし、それらの疑点はすぐに解消されることとなった。
一行が港までおりていくと、船着場にジェラルドの親衛隊たちが待っていた。
あるじが無事に帰還したこともあってか、親衛隊たちはにこやかに一行を出迎える。
ジェラルドがアルバートを介して、ルイとディレンツァを全員に紹介した。
ルイも相手にあわせて皮相的な品のよさを口もとにうかべながらあいさつに応じる。
親衛隊は三人いた。
長髪を逆立てたレナードと前髪が直線に切りそろえられたベリシアはそれぞれ男女で、騎士のいでたちをしている。
身に着けているものに火の国の紋章があしらわれているので騎士団の精鋭かなにかだろう。
ジェラルドより年嵩、少なくとも20代後半くらいにうかがえる。
ルイは初見で、この二人は情に通じているところがあるような気がした。
しかしそのあとウェルニックに着目したら意識は完全にそちらにかたむいてしまった。
短髪刈りあげのウェルニックは、身長2メートルはあろうかという長身で、ルイはその風貌に〈月の城〉で遭遇した巨人族の子を思いだしたりした。
握手のためにさしだされた手も分厚で大きかった。筋骨もたくましい。
意外なのはそんな体躯のわりに修道士だということだった。
法衣をまとっていたので冷静にみればわかるはずだったが、ウェルニックの存在感は牧師や聖職者というより護衛兵に近かった。
澄んだ瞳をしており、ルイは握手するときなんとなく気恥ずかしくなった。
腰に重そうな槌をぶらさげている。
女神信仰教会の活動はときに強権的だというが、ウェルニックがそれをふるっているさまは想像できなかった。
「心配してましたよ」レナードがうすく笑う。「――乗船許可がそつなく降りるかどうかをですけど」
ジェラルドも微笑した。
「ほんと平和な町でよかったわ」ベリシアがほほえむ。
〈鹿の角団〉やらごろつきやらが徘徊していたりもする港町を平和だと断言するところに驚く。
内乱や紛争の多い火の国に育てばそう感じるのだろうか。
「まぁ、心づよい味方ができたおかげでもあるし――」ジェラルドはルイたちを一瞥する。アルバートがえへへと照れた。「それに切り札のモレロがうまくやってくれた」
モレロ? ルイが頚をかしげると、アルバートが「あれ!?」とびっくりする。
ルイがアルバートの視線を追いかけると、そこに小男がいた。
「ん!?」と、ルイも思わず声にでてしまった。
そこにいた人物は、グレアム宰相のはずだったからだ。
しかも宰相は忽然とすがたを消していた。
「やはり、まじない師だ――」ディレンツァが目を細めてつぶやく。
ルイとアルバートがその横顔をみる。「まじない師?」
「そうさ! 騙されただろ!?」と二人の声に反応し、小男がケケッと笑う。
長髪を複数の束に結った複雑な髪型をしており、いかにも日陰者という顔つきで、ハイエナを連想させられるような狡知さを瞳にうかべている。
「ディレンツァ氏はすぐに勘づいたようだったけどね」ジェラルドが破顔すると、ディレンツァが無表情で応えた。「実物をあまりみたことはなかったので確証はなかった。どちらかといえばグレアム宰相がジェラルド王子たちの翼賛をになう可能性はあまりないと判断したのが疑念の募った要因だな」
「ああ、そこが計画のネックだったんだが、所長殿をはじめ町の人々も疑いなく信じてくれたので助かった」ジェラルドが胸をなでおろすと、モレロはケケと舌なめずりをする。
ウェルニックが「もう少し上品に笑えませんか」とたしなめた。
ベリシアが「モレロに品位をもとめてもね」と顰笑し、「でもモレロが上品に口もとをかくしたりしても気持ち悪いぞ」とレナードがにやけた。
「え、なに、どういうこと?」ルイはディレンツァに訊ねる。「まじない師って? あの人が変身してたってことなの?」
「ああ……」ディレンツァはルイをみる。アルバートも興味深げにモレロとディレンツァを交互にうかがう。「まじない師は、西方に端を発する特殊能力を有する部族の末裔のことだ」
「特殊能力――それがいまの変身のこと?」アルバートが問う。
「私も詳しいわけではないので語弊があるかもしれないが、特殊能力といってもかれらのそれは、私たちでいうところの魔法などとは少しちがう。心の働きかけや自然現象を利用する魔力の作用とは根源的に異なるわけだ。どちらかといえば、巨人族が少年期に急成長する性質を秘めていることに近い」
「というと、変身癖みたいなものってこと?」ルイが眉をしかめると、「いや、ちがう」とディレンツァは言葉を切る。
「かれは――モレロはグレアム宰相に変身していたわけではない。ただなにも知らない他者にはそうみえるようによそおっていただけだ。そう説明するのが正しいのかはわからないが――」
「よそおう? だって、変装ではないでしょう?」ルイの脳裏が疑問符であふれると、アルバートも「そもそも顔だって背格好だってぜんぜんちがうもんね?」とつづく。
「さっきモレロ本人が表現していた、騙す、というのが近いのかもしれない。モレロは特殊能力によって、われわれの視神経や脳のほうにむしろ誤解が生じるような作用をもたらしているわけだ。だからそれを疑ってみていた私の目には、終始、完全なグレアム宰相には映っていなかった――」
そういえばディレンツァはずっと霧の向こうに目をこらすようにしてモレロ(グレアム宰相)をみていた。
ルイは「ふぅむ」とうなずく。
言説されたところで魔法とおなじで「よくわからない」というのが感想だった。
「まじない師の能力は多岐にわたっていると聞く。いまのような錯覚だけではないだろう。暗殺者として暗躍したこともあるし、巨人族とおなじように少数民族だったために歴史上弾圧の対象になったこともある。大多数は西の果てに還っていったのだと聞いているな――」とディレンツァがまとめる。「私も実在する人物では、ほとんど知らない」
ジェラルドの配下たちに囲まれてへらへら笑っているモレロをみると、そういった複雑な経緯をもっているとは少しも思えない。
ルイはみょうに感心したが、「でも、結果的には発言どおり湾岸事務所の面々を騙しちゃったわけよね? それって問題じゃない?」と、ふと思いついて訊ねる。
「暴挙にはちがいない――」ディレンツァにだけ聞こえるようにしたつもりだったが、ジェラルドがルイをみてうなずく。「だが仮に伯爵都までもどってカークランド公に進言すれば、グレアム宰相にご足労願うことはできないまでも、おなじような展開に結実するだろう。時間短縮したにすぎないと思っている。それに航海は自己責任でおこなうし、老船長にもそれ相応の報酬はしたいと思う」
ジェラルドの笑顔に、ルイは納得してしまった。「なるほど」
「しかし勝負はこれからだ。そもそもようやく始点に立ったにすぎない」
ジェラルドははしゃいでいる仲間たちの向こうにひろがる内海をみつめる。
ルイも目線を送る。
おだやかな波がたつ水面が白いしぶきをあげていた。
急展開にあたまが追いつかないけれど、一時的とはいえ(目的はちがっても)道づれが増えたことで、どこかしら心にゆとりが生まれたような気はした。
なにより午前中に猫をかまっていたときのような、知らない街角でたたずんでいるような心細さはなくなっている。
しかし和気藹々としているのもつかの間、マッコーネルのみちびきで港のはずれまでやってきたところで、ルイたちは絶句することになった。
やや痴呆ぎみとはいえ、(さらに自称とはいえ)かつて有名な航海士だったということから、それなりの船舶を所有しているものだとたかをくくっていたら、マッコーネルが得意然と手をふりかざして紹介したのは、大型の貨客船のとなりにコバンザメのようにこじんまり浮かんでいる小型の(しかも旧く傷みのはげしい)ただの漁船だった。
全長10メートルもなさそうだ。
しかも曳網がそなえつけられているのに、船首に集魚灯のようなものがぶらさがっている不可解な仕様である。
ルイたちは口をあんぐり開けたまま黙りこむ。
ジェラルドだけが哄笑した。「こりゃいい、これで生き残れたら幸運の女神は私たちの味方だな?」
しかもそれにつづいてレナードが「おい、ウェルニック――ちゃんと船のまんなかに乗れよ。おまえけっこう重いんだから、そうしないと前後左右のバランスがくずれて沈んじまうぜ」と冗談めかし、「なんてひどいことを! でもそれをいうなら、あなたもベルシアと離れてくださいよ。くっついてるとかたむきますから!」とウェルニックがやりかえし、ベリシアの頬がほんのりそまり、モレロがケタケタ笑った。
ジェラルドの一派たちはわりと平然としているように見受けられる。
ルイはアルバートをみて、目が合うと二人でディレンツァをみた。
ディレンツァは眉ひとつ動かさない。
「まぁ、いまさら拒否できるわけないし、こういう流れならしかたないわよね」とルイがつぶやくと、アルバートが「うん……まぁ、なんとかなるよね」とあいまいにうなずいた。
それから一行は夕方までかけて一週間分の物資(飲食物など)の調達をした。
本来なら〈はずれの港町〉から王都まではこの時期、風にのれば三日ぐらいで到着するそうだが、原因不明の沈没だけではなく、行方不明になり発見されない船舶もあることをかんがみると、漂流することも前提にしておかねばならない。
楽な作業ではなかったが、ルイは同姓のベリシアと買いものをしているときは楽しかった。
(男性陣は辟易してすぐにいなくなったが)手ぬぐいひとつとっても、色や柄を精査する作業に没頭できた。
ベリシアはルイの替えの衣類を選ぶとき、ルイの体型をずいぶんとほめた。
ベリシアのほうが背も高く、脚も長く、くびれも深く、ついでに胸も大きかったが、「身体のサイズじゃなくてね、なんていうか、あなたのほうが豊満なのよ。煽情的とまではいわないけど肉感的な感じ。踊り娘だったから? ふむ、そういうことなのかしらね」とルイをしげしげとながめた。
出発はそのまま夕刻になった。
翌朝まで待つという選択肢はジェラルドにはなかった。
「そもそも昼夜かけて航海するのだから出立の時間は関係ないだろう?」と薄暮れの空と海をみつめながらジェラルドが微笑したので、「それもそうね」とルイも思わずほほえんだ。
当然ながら漕ぎ手の確保もできなかったため、潮流にのるまでのあいだ男性陣が櫓をこぐことになった。
ちょうど夕凪の頃だったので風にも期待できない。
アルバートだけがぶつくさ文句やら泣き言やらをぼやいていたが、ルイは無視することにした。
蹴りのひとつもいれたいところだったが、ジェラルドたちにこれ以上アルバートの情けないすがたをみられたくないという驕心みたいなものもあったかもしれない。
興味本位らしい見物人たちも大勢集まってきた。
おそらく、だいたいが湾岸事務所にたむろしていた連中だろう。
無謀な王子二人とその従者たちが危険をおかそうとしていることについて、あれやこれやと論じ合ったり、こそこそ耳打ちしたり、鼻で笑ったり、眉をひそめたりしている。
ルイが見まわすと、群れの奥のほうで例のこわもての水夫が不安そうな顔をしていたので、目が合ったところでウィンクしてやった。
水夫はあわてて目をそらした。
やがてジェラルドが落ち着きはらった精悍な顔つきで、「さァいこう、船長!」と呼びかけると、マッコーネルが高らかに「出航? よーし、ついてこい! わしゃ、今度こそあのくじら野郎をやっつけてやる!」と意味不明な宣言をし、汽笛を鳴らした。
すると黄金色の静かな海に、へたくそな歌い手の不安定なファルセットのような笛の音が響きわたり、野次馬たちが抱腹絶倒した。