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70 静かな雨のふる日

 月日が過ぎて、長い時間が流れ、内海をめぐる人魚譚がふたたび伝説になろうかという頃、一人の名もなき若手音楽家が、たまたま〈珊瑚礁の町〉をおとずれた。


 音楽家は陰鬱な顔で、靴をひきずるようにして、とぼとぼと海岸を歩いていた。


 晴れた春の日で、潮風はここちよく、散歩にはもうしぶんなかったが、音楽家はそのすべてに無感覚だった。

 音楽家は仕事につまずき、才能に疑問をもち、批評に胸を痛め、将来に不安をいだき、友人のすすめでしばらく王都のせまい世界からぬけだし、創作意欲を再確認し、暗澹たる胸中のにごった空気を入れ替えるために辺境をたずねたのだった。


 しかし、長い距離を移動しても、それだけで気持ちに変化など起こるはずもなく、音楽家の脳裏には難しい諸問題がこんがらがり、外界の刺激が心に入りこむ隙はまるでなかった。


 どこをどう歩いたのか、気づけば音楽家は人の気配がまるでない静かな入り江にいた。

 ふりむくと、わりと高い崖で、吹きつける風とうちよせる波の音しか聞こえなかった。


 目前には内海がひろがっており、どこまでも白波がたち、水面はキラキラかがやいていたが、どこか秘密めいた雰囲気をもつ場所だった。音楽家はようやく風景に関心をもてた。


 あまりにもおだやかな眺望で、ひっそりとして静かだったが、内省的にはならなかった。

 どことなく、なつかしいような気持ちになる空間だった。


 音楽家はふと、楽器を弾きたい欲求に駆られて、荷物袋をおろし、いっしょにかついでいたケースからバイオリンをとりだした。

 最近はピアノしか弾いてなかったが、音楽家が最初に手にした楽器はバイオリンで、そのとき持参したものがそれだった。


 安物で、幼少期は粗雑にあつかったこともあったので、あちこち傷んでいたりもしたが、旅路で破損してもかまわないし、なにより馴染み深いものだったから選取したのである。


 楽器をかまえてみると、場に合っているように感じられ、音楽家は満足げにうなずいた。

 潮風が楽器によくないかもしれないが、海辺のバイオリン弾きというイメージはわるくないと思えた。


 音楽家はまぶたを閉じて、深呼吸してから、思いのままに音色をつむいだ。

 思いだされるのは、無邪気に演奏を楽しんでいた少年時代だった……。


 ――ふと笑い声が聞こえた気がして、演奏をとめる。


 すると、そばの岩塊に女性が坐っていた。


 あまりに唐突だったので、どこからきたのかとか、ずっといたのかとか、そんな疑問はうかんでこなかった。


 きれいな女性だったが、よくみると、その女性の下半身は魚だった。

 うろこがきらきらと陽光を反射している。


 音楽家はバイオリンをおろした。


 そういえば町に到着したとき、宿のあるじが人魚について説明していたのを話半分に聞いた気がする。

 ほとんど憶えてなかったが、どうせ観光に関するあたりさわりない宣伝文句だと思っていた。


 危険なんだろうか……音楽家がそんなことを考えていると、人魚はにっこりとほほえんだ。

 目つきも、顔つきも、人間のそれにそっくりで、敵愾心のようなものは少しも感じなかった。


 しばらく見つめあったのち、観客がいてもいいじゃないか――音楽家はそう思い、ふたたび演奏をつづけることにした。


 内海につながる入り江なのに、なぜか慣れた個室で演奏しているかのような安心感につつまれて、音楽家は飽きることなくバイオリンを弾くことができた。


 そのとき、音楽家は目を閉じていたから気づかなかったが、音楽家や人魚のまわりには、小鳥やら魚やらカニやらフナムシやらが、その旋律に惹かれて集まってきていた。

 それは密やかでも、楽しく、とてもにぎやかな演奏会だった――。


「――おい、そんなところで練習しているのかい? あぶないよ!」と、いきなり背後からダミ声がして、音楽家がふりかえると宿のあるじがいた。


 そして、驚くべきことに、もう夕暮れだった。

 宿のあるじの浅黒い顔が、夕陽できれいにみえた。


「帰りが遅いからさがしにきたんだよ。このあたりの波は、ゆるやかにみえて意外と危険なんだ。浅瀬も短くて、急に深くなるし。凪が終わると注意が必要なんだよ」

 宿のあるじは、気まずそうにあたまをかいた。

 邪魔してしまったと思ったのだろう。


「すみません、もうもどります」


「そうかい、夕飯はできてるよ」

 宿のあるじはいそいそともどっていった。


 その背中を見送ってから、音楽家はため息をついた。


 ふと、人魚が気になって岩場をみてみたが、そばに坐っていたはずの人魚はすがたを消していた。最初からなにもいなかったかのように――。


 しかし、音楽家が近寄ってみると、椅子代わりにしていた岩のわきのくぼみに、蝶をモチーフにした銀細工付のやや古めかしい水差しが置いてあった。


 音楽家は逡巡しつつも、手にとってみた。

 水差しのなかで、からからと音がしたので、慎重に中身をとりだしてみた。


 そこには、劣化してぼろぼろの昆虫を模したような横笛と、おなじく崩れ落ちそうな、ふくろうらしき木彫りの置物が入っていた。


 漂流してきたものなのか、人魚の持物だったのか……それは音楽家にはわからない。


 それでも、それらをじっとみていると、なぜかだれかの秘密をのぞいているような、うしろめたい気持ちになった。

 音楽家はそれらをもとの場所にもどして宿に帰った。


 その夜、霧雨がふって靄がたち、海辺の町は静けさにつつまれた。


 眠れない音楽家がベッドに入って目を閉じていると、どこからともなく女性の歌声が聞こえてきた。

 

 きれいなソプラノだった。

 どこかで聞いたような曲だったが、それがなにかは特定できなかった。


 窓からそとをみてみようかとも思ったが、しばらく考えてやめて、音楽家は息をひそめて耳をすませた。

 目を閉じて、いつしか眠りにつくまでその歌声に聞き入った。

 それは絹糸で織物をつむぎながら、だれかのことを想っているような、静かで密やかな夜の歌だった。それはかつて、ルイが聞いた空耳とおなじ、どことなく哀しいけれど望みをなくしてはいない、最後の人魚の、終わることのない、不滅の、愛の歌だった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 最後の終わり方が、とある種類の映画っぽいところもありますね。うんうん、昔話的な何かには常に教訓と恐れが含まれてものです。
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