67 夜の宴の終わり
「宴もたけなわというやつだね……」とアルフォンスがつぶやいた。
ニーナ(人魚)とエドバルドの邂逅を経て、〈いにしえのくじら〉は空の色をぬりかえるぐらいの潮を噴き、どこか遠くへと還っていった。
消える瞬間、大くじらはバイオリンの高音部のような高い声で鳴いた――。
パティにはそれが、まるで赤ん坊の泣き声が遠く反響しているみたいに聞こえた。
呆然としているパティたちをよそに、うずまく風のなかで滞空していた鳥たちや、崖に整列していた動物たちが、つぎつぎに鳴いたり雄叫びをあげたりした。
統一性もなかったし、まるで口論しているかのような荒々しい声ばかりだったが、なぜかしら聖歌隊が合唱しているようでもあった。
秘密の儀式をのぞいてしまったかのような気持ちになり、パティはどきどきする。
ダグラスですら減らず口ひとつたたかない。
そして、大くじらたちの気配がなくなると、鳥たちも動物たちも思い思いに闇にまぎれていなくなった。
それぞれの生活圏へと還っていったにちがいない。
やがて、夜は水をうったように静まりかえった――。
波の音さえなくなり、完全な沈黙につつまれたような気がした。
パティはみずからの胸をおさえる。
あたりは静かになったが、鼓動はまだ興奮していた。
上位幻獣への畏怖かもしれないし、もっとなにか大きなものへの不安かもしれない。
右肩のモカが、そっとパティの髪をさわってきた。
パティはほほえんで、その手をにぎりかえす。
「……なんだかいつもより星がくっきりみえるみたい」ふとステファンがつぶやいた。
「アルタイルやベガなんて、でっかい宝石みたいだな。高く売れそう」あまり本調子ではなさそうだが、ダグラスもようやく無駄口をきいた。
バレンツエラは黙ったまま、静かな黒い海と、色とりどりの寓話的な夜空をみつめている。
いろいろ考えごとをしているのだろう。
パティも混乱していた。
難しいパズルをしているみたいだった。
アルフォンスがとなりにいたので、なにか話しかけたかったが、なにをどう話していいのかわからず黙ってしまった。
そもそも全員がおなじ量の情報を得たとはかぎらない。
むしろ、人によってちがうのではないか――そう思ったところで、少しだけ湿気のまじったやんわりとした風が海から吹いてきた。
初夏の夜の風だった。
いままでこんなにも多くの生きものの視点を感応したことはなかったので、あたまが重く、にぶい頭痛のようなものがあったが、ニーナとエドバルドについて思うと目が冴えてくるところもあった。
人魚の目を借りたこともあって、パティがいちばん多くの情報を、当事者の目線でみたはずだ。
エドバルドの性格やコンプレックスだけでなく、深い茶色の目をしているとか、緊張すると右目が奥二重になるとか、後世に残されている肖像画などではうかがえないような部分も垣間見ることができた。
そしてなにより、エドバルドの過酷な運命である。
エドバルドがほんとうに千の命をのりこえて「この世界」にもどってこられるのかどうか、パティにもわからない。
約束が果たされたらいいと心から思うが、その気持ちは〈魔導院〉の古木が千年さきでも生きて枝葉をひろげていてほしいと願うような、漠然とした祈りに近い気がする。
しかし……それでもいいのかもしれない。パティはそう結論づけた。なぜなら、ニーナはそれを待っていることができるから。
不死の人魚の身体を借りることで、エドバルドの帰還の約束を胸にいだきながら、ずっと待ちつづけることが可能なのだ。それこそ歌でもうたいながら。
思い出は確かに美しい。
しかし、それを生きるよすがとすることは、ときに厳しい。
かといって、だれも知らない来世に期待することもまた、とてもむなしい。
だからいまの、この現実の世界で再会することができるなら、それがいいに決まっている。
ずっといいに決まっているのだ――。
流れ星がつづけて空を横切り、ステファンがきゃっきゃと盛りあがった。
ダグラスがそれを茶化し、バレンツエラが微笑した。
ふと、耳もとに寝息が聞こえる。
どうやらモカがまるまって眠ってしまったらしい。
パティはそのふさふさした頭部をなでる。
アルフォンスが目を細める。「ちいさな生きものでも、夢はみるのだろうね」
「……こわい夢じゃなければいいですけど」パティもほほえんだ。
夜の風は温暖で、ちりばめられた星はゆれながらかがやき、大くじらによって淡い闇にぬりかえられた空はおだやかで親しみやすい。
詩人が吐息する。「ずっと昔、おなじような光景をみたような気がするよ。おなじような夜に、おなじような場所で。気のせいだろうけどね」
「ふふ、私は初めてですよ」パティは空を仰ぐ。
故郷の山岳地帯では夜ごと天体観測をしていたものだが、今夜のようなふしぎな夜は初めてだし、これからもあるかどうかは疑問だった。
「雨がやめば空気は澄んで、空は高く美しい」アルフォンスが朗読するようにつぶやく。「人魚の涙雨も、しばらくはやむにちがいない。つぎに降るときも、雷雨にはなるまい。そっと静かにふりそそぐだろう」
パティがぼんやりと静かな雨を想像すると、アルフォンスが古楽器を一音だけ、はじくように弾いた。
それはまるでなにかの合図のように、夜の世界に響きわたった――。