66 ゆりかごの静けさ
せまりくる怪物から逃れようとしているかのような緊張感をおぼえながら、ぎりぎりのタイミングで海にとびこんだおかげで、敵一味からかくれることはできたけれど、海は暗く、波は高く、ザウターは早急に善後策を講じなくてはならなくなった。
もう夏といえる時期だったが、海水はまだ冷たい。
腕のなかには意識をうしなって、ぐったり眠っているティファナがいた。
ザウターの手がふれている腹部は、すでに冷え切っている。
ティファナになにが起きたかは徐々にわかった。
魔力を堆積しやすい身体を召喚魔法の温床として利用され、その幻獣があまりにも強大なものだったので、ティファナの意識は一時的な昏倒状態にあるのである。
だれかがティファナを悪用したのだろうが、それがだれなのか、そしてなんのためだったのかがザウターには理解できず、いまはそれを究明する余裕さえなかった――。
巨大くじらが上空に出現すると同時に、周辺の岩場とうしろの断崖と、それから洞穴もまた、まるで夢のように一瞬ですがたを消し、ティファナをかかえたザウターは、(敵所有の)漁船の甲板に佇立していたのである。
おそらく、岩場にせよ洞穴にせよ幻影だったのだろうが、だれが生みだしたものなのかもザウターにはわからない。
そばにいたマッコーネルという名の敵船の船長ではないことだけは確かだろう。
そこに敵連中の声が聞こえ、思いのほか近くだったため、ザウターはティファナを抱いたまま躊躇せず海に跳んだ。
数でも不利なら、ティファナも参戦できない状態では、鉢合わせは危険だった。
入水したとき、ティファナのマジックハットが波にさらわれてしまった。
たちこめる靄で視界がわるく、海も荒れぎみだったので、ザウターはとにかく敵船の右舷側まで泳ぎ、船上からの死角に入った。
うまい具合に金属片が剥がれて、でっぱっている箇所があったのでそこにつかまる。
「おい、しっかりしろ」
ザウターはティファナの顔をのぞきこむが、血の気は失せて蒼白で、くちびるも真っ青で精気がない。
頬をたたいてみたかったが、手がふさがっているのでどうしようもない。
最悪、船上にもどる算段をつけなければならない。
戦力的に劣勢でも、ティファナが衰弱死するよりはましだろう。
ザウターは時機をみるために、ティファナを抱きかかえたまま耐えることにした。
かつて〈鹿の角団〉で培った「石になる訓練」を思いだし、それを実践した――。
しばらくすると、急に波がおさまってきた。
同時に、敵船上から悲鳴にも似た男女の歓声が聞こえる。
ザウターは周辺をうかがう。
海上は荒れがおさまって、落ち着きをとりもどしつつあり、靄も晴れてきて、だいぶおだやかになってきたようにみえた。
上空を仰ぐと、夜空には星がきらめき、その合間をぬうように光のカーテンが引かれ、そこを横切る無数の鳥の影がみえた。
ふと、わき腹とふとももに痛みを感じて――そのせいでザウターは金属片から手を離してしまい、ティファナとともに海に投げだされてしまった。
あわてて右手でティファナをひきよせて、目をこらすと、まわりにはたくさんのくらげがいた。無数のくらげに取り囲まれていたのである。
しかも、それだけではなかった。
少し離れたところでは、魚の群れやジュゴン、イルカ、アザラシ、セイウチといった動物たちも列をなして泳いでいた。
なんなんだこれは――!?
つぎからつぎへとわけのわからないことが起こる。
思わず手にちからが入り、そのおかげでティファナの腰に巻いてある鎖にふれた。
〈銀の鎖〉だった。
ティファナが猛獣などを自由自在にあやつるために使用しているマジックアイテムである。
ザウターは左手でそれを取りあげて、自分では使えないので、一か八か、鎖の一端をティファナのだらりとした右腕に巻きつける。そして、もう一端を鞭のようにふりまわすべく、ティファナの身体を海中でゆらした。
すると、2メートルほどの鎖が、まるでヘビが泳ぐみたいに海面をうねうね動き、ザウターが意図したとおり、まわりに集まってきていた大群のくらげを、クモの子を散らすように追い払うことができた。
しかも、ちょうどそこに白鳥やらペリカンやらの群れが通りかかった。
なぜ海にそんな鳥たちがいるのか知らないが、ザウターは機転をきかせて、背中とひざに手を入れてティファナの身体をもちあげ、〈銀の鎖〉のさきを群れのほうに放つ。
幸運にも、大きめのつがいのペリカンをつかまえることができた。
すぐさまティファナを一羽の背にのせ、自分ももう一羽にしがみついた。
上半身が羽毛にふれるだけであたたかさを感じる。
ザウターはペリカンたちをすぐさま誘導して、敵船の後方に向かった。
まるで馬のたづなを引いているみたいだった。
夜の海ということもあってか、ペリカンなどという注意をひく鳥だったけれど、ザウターたちは船上の連中にはみつからずに済んだ――。
敵船のだいぶ後方に、〈はずれの港町〉から乗りだした二人乗りのボートが漂流していた。
海流にのって自然と漁船を追いかけるように流れていたらしい。
ザウターはティファナを背負うようにしてボートに移り、ペリカンたちを解放した。
ボートに乗るとすぐに疲労感がでてきて、ザウターはティファナを横臥させたあと、みずからも仰向けに寝転んだ。
アンタレスといくつかの星座が目に入った。
ザウターは安堵の息をもらす。
海中でなければ、それほど寒さは感じなかった。
ティファナがうーんとうなったので、「大丈夫か?」と訊ねると、「ありがとう、ペリカン隊長……」と寝言をつぶやいた。
だいぶ衰弱している声だったが、それでもザウターは苦境をのりこえられたことを実感できた。
このまま潮流にのっていれば、やがて王都に到着するだろう。
なんにせよ、ようやくハーマンシュタイン卿のもとに合流できるのだ。
すると、ティファナが寝息をたてはじめた。
ザウターは上体を起こし、ティファナの前髪をわけて、眠り顔を確認してから、みずからももう一度横になった。
ボートのゆれにも、鼻さきをかすめる潮風にも、不穏なところはない。
内海を覆っていたいやな兆候は、きれいに消え去っている。
まるでゆりかごで寝ているかのように平穏だった。
この静けさはだれによってもたらされたものだろうか――少し考えたが、気にするにはつかれすぎていた。
ザウターもゆっくりまぶたを閉じる。
眠りぎわ、どこか遠くから女性の歌声のようなものが聞こえたような気がした……。




