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65 太古から変わらない星空

 固唾を呑んで頭上をみつめるルイたちをよそに、大くじらがふたたび潮を噴いた。


 そのしぶきによって、まるで夜空がぬりかえられるように晴れわたり、まるで紙芝居の新しいページをめくったかのように暗雲が消え去った。

 色とりどりの星空で、光虫の河は天の川につながり、銀河の果てまでつづいていくかのように流れた。

 まるで夢のようだった。


 霧状の潮がふりかかってきて、モレロ、レナード、ベリシア、ウェルニックが興奮する。

「うひゃぁ!」「知ってるか、くじらの噴気孔って人間でいえば鼻の穴なんだぜ?」「え、じゃあ、これって鼻水? なんかやだ!!」「でも、鼻からでる水がすべて鼻水とはかぎりませんよ――」

 最後のウェルニックの声さえ、おどけてうわずっていた。


 しかし、そうなってしまう気持ちはルイにもわかった。

 理由はよくわからないが、少なくとも内海に漕ぎだし、幽霊船に遭遇したときとくらべれば、状況は好転していると実感できたからだ。


 わからないことだらけだが、内海に横溢していた不吉な予感は、だれの心からもきれいに消え去っている。

 何時間もさまよった大迷路からぬけだすことができたような晴れやかさが胸に充ちていた。


 みんなが声をあげながら、キラキラした光虫の河をみつめていると、大くじらが身をよじりながら、キューンとかん高い声で鳴いた。

 

 ずっと遠くの、それこそ世界の果てまでとどいていくかのような印象深く、それでいて、知らない暗号でやりとりしているかのような内密な感じの音だった――。


 その音がまるで、とても高い灯台のてっぺんから放射状になげかけられた灯りのように内海全域へとひろがっていき、長い余韻をもって沈黙を迎えると――気がつけば、エドバルドとニーナと大くじらはすがたを消していた。


 だれも消える瞬間をみることができなかった。


 そして、全員の目には星空だけが残っていた。

 それはずっと昔から、船乗りや漁師たちがみてきた内海の夜空だった。

 はるか太古から変わることのない星の海がそこにあった。


 ルイたちは、ニーナの過失によってつくりだされていた魔法の牢獄からようやく解放されたのである。


 ルイはまばたきをくりかえしてから周辺を監察し、風の音に聞き耳をたて、鼻からいっぱいに空気を吸いこんでみた。

 それにより、みずからが立っているのはマッコーネルの漁船の甲板であり、目に映り、耳に聞こえ、鼻で感じるのが、現実の内海であると生々しく実感できた。

 たちこめていた靄も、異様な雰囲気とともになくなっていた。


 背後ではジェラルドの臣下たちがはしゃいでいて、そばではジェラルド、アルバートとディレンツァがならんで空をみていた。舳さきにはマッコーネル船長の背中がみえる。


 ルイは甲板から海を見下ろしているディレンツァのとなりにいった。

 

 ルイがならんできてもディレンツァは姿勢を変えなかったが、ルイがきたことはわかっているという空気はつたわってきたので、ルイは話しかけた。

「……とりあえず、無事ってことでいいのかしら? あいかわらず、私にはよくわからないけれど」


「ああ……」ディレンツァは目を細めて波をにらんだのち、ルイをみた。「私にもよくはわからない。頻発した内海の事件が、エドバルドとニーナの過去に起因していることは垣間見たとおりなんだろうが」


「私たちはニーナの魔法の世界に入りこんで、囚われてしまったってことでいいのよね……」


 ディレンツァはうなずく。「そうだな。知らない海辺の町や、静かな入り江なんかは、ニーナの魔法によってうまれた架空のものだろう」


「……なんだかずいぶんリアルだったけれど」

 海風が吹いてきて髪がみだれそうになったので、ルイはそっと手をそえる。


「もちろんすべてが幻想というわけではないだろう」ディレンツァはくちびるをかんで沈思したのち、つづける。「あの町には、ニーナの魔力にひきよせられて囚われてしまった多くの人々がいた。服装や肌や瞳の色、言語の種類や発音や抑揚など、まるで統一感のない集合体だったからな。内海におけるニーナの呼びかけの魔法は、ひろく外海や、よその地域にもおよんでいたのだろう」


 ルイはうなずく。

 それにもし、エドバルドの顛末が真実なのだとしたら、ニーナの呼びかけは「べつの世界」にもとどいたりしていたのではないか――ルイはそんなことを夢想する。文字どおり、ありとあらゆる時空の人々に。


「それを確認できる人がいればよかったが、まるで集団催眠のように、だれもがニーナの世界に染まりすぎて、若干理性を喪失しつつあったようだ」ディレンツァが苦笑する。


 そういう意味でも早く脱出するべきだったのだ――ルイはようやく当初の状況を察した。

 ニーナの魔法の歌は、確かにつよい魔力的な情感にあふれ、われを忘れさせるものではあったのかもしれない。


 ふたたび強い潮風が吹き、ルイは目を閉じてやりすごしたのち、ふしぎな海辺の町の住人たちについて再考した。

 しかしそうすると、あの住人たちはどうなったのだろう。

 ルイたちが「この世界」に還ってきたように、かれらもまた「それぞれの世界」にもどることができたのだろうか……そんなことだれにもわかるはずもないことだったが、ルイは想像せずにはいられなかった。


 ある日突然、航海のさなかに行方不明になった人が、なんの前触れもなく生還する――きっと多くの場合、帰りを待つ人たちがいて、よろこびの涙が流れるにちがいない。そもそもニーナとエドバルドの関係もそれに近いのだから。


 ルイは目を開ける。

 山奥の湖沼のように澄んだ夜空で、銀河はあいかわらずきれいだった。


 ディレンツァがつぶやく。

「ニーナの歌が、かつて渡航者を惑わせたというほんものの人魚の歌のように、ずっと内海で難破事件を起こしつづけた要因になったことは確かで、それは最終的には魔法として成立し、エドバルドの魂を召喚した。しかし、何十年もずっと機能することのなかったその魔法が、どうしていま完成したのか、そこが私にもよくわからない。あるいは王都にて過去の記録を精査すれば、見当がついたりするのかもしれないが、どうなんだろうな――」


 ルイには答えられなかったが、ディレンツァも返事は期待していないだろう。


 ルイは海風を思いきり吸いこんで、ゆっくりと吐きだした。

 ニーナの歌声も、エドバルドの演奏も、そこに悪意はまったくなかった……そう思うと、なんだかやるせない。


「罪にもいろいろあるのかもしれないけれど、エドバルドが偶然手に入れたオカリナで、王都に災害をもたらしてしまったことは、やっぱり悲劇よね。古代の精霊を呼びだすためのものだったんだから、しかたのないことなのかもしれないけれど」


 ディレンツァは目を細める。「……私の憶測でしかないが、水の蛇の仔は、オカリナの効能によって召喚されたわけではないと思う」


「え、そうなの?」ルイは目を大きくする。「じゃあ、なんで……?」


「上位の幻獣は、そんなに容易に呼びだせるものではない。ましてや精霊王ともなると、強い誘引力をもつ魔法使いの存在だけでなく、その強い魔力の受け皿になるような温床の利用も必須条件になるだろう。ルイも知っているとおり、〈鹿の角団〉の首謀者ハーマンシュタインは、おそらくそういうものを利用して、沙漠の国を侵略するさいに精霊王の土の獣を召喚した」


 ルイは呆然とする。

「でも、それじゃあ、なんで水の蛇の仔はエドバルドのまえに現れたの?」


「それは単純に、水の蛇の仔がエドバルドの演奏に惹かれたからだろう」ディレンツァは無表情で答える。「とびきりの曲だったにちがいない」


 ルイは口をすぼめたまま黒い海をみる。

 だれもいない夜の海に向かってたまたま笛を吹いたこと、そしてその演奏がたまらなく魅力的だったことが要因だったのか――。


 でも、どちらにせよ、おなじことではないか。

 オカリナに秘められた魔力でも、エドバルドの秘めた技能でも、結果がおなじなら似たようなものだ。


 あるいは後者のほうが、ずっと悲劇的だといえる気もする。

 まるでエドバルドの演奏が、悲劇に帰結するように宿命づけられていたみたいで、なんだかおさまりがわるい。

 悩んでもしかたのないことだが、ルイは悩む。


 すると、ジェラルドとアルバートが声をあげて笑った。

 理由はわからないが楽しそうで、アルバートの背中をみるだけで、へらへら顔で笑っていることが想像できて、いろいろ思い悩んでいることがばからしくなる。


「王子たちは疑問に思わないのかしら?」ルイが頬をふくらませると、ディレンツァが「私たちがみたようには、みていないのかもしれない」とつぶやいた。「私とルイがおなじものをみたかもわからないがね」


 そういうものなのだろうか――ルイが訊ねようとしたところで、レナードたちも星座をゆびさし、ふざけだしたのでルイは黙ってしまった。

 

 ただ確かに、エドバルドやニーナのそれは、記憶なのか心象風景なのか断定しづらいから、受け手によってちがったりして、おなじものをみていたとはかぎらないかもしれない。


「――でも、ほんとうなのかな?」ルイは両手をあたまのうしろで組みながら話頭を転じる。「最後の約束とかって、どうなのかしら。水の蛇の親子げんかに大くじらが仲裁に入ったとか、エドバルドが回帰のための試練をあたえられたとか……。エドバルドはこうしているいまも、多難な人生をどこかで送っていて、しかもそれをくりかえすのよね。なんだかまるで夢みたいだわ――」


「……さぁな」ディレンツァはうなずいた。「だれにもわからない」


 それでもルイがみると、その横顔は微笑しているようにもみえたが、たぶん気のせいだろう。


 ディレンツァが空を仰いだので、目線を追いかけると、偶然、流れ星がひとつみえた。

 どこか遠くから現れ、一瞬でどこか遠くへと流れ、そして消えた――。


 ルイは思わず、ため息をついてしまった。


「気に病むことはないさ」

 すると、ジェラルドが突然ルイをみる。

 手下か子分のように、アルバートもルイの様子をうかがっている。


「世の中には説明がつかないことのほうがずっと多い。そしてどの問題だって、つきつめれば、結局ひとつの疑問に集約される――われわれはなぜ存在するのか、とね。だから、そんなふうに悩みを積みかさねていけばいい」ジェラルドは口角をあげる。「理解できないことに屈してはいけない。大事なことほど伝達は難しいものだから」


 ルイはうなずく。

 考えてみれば、身のまわりは謎だらけだった。


 結局のところ〈伝説の宝石〉とはどういうものなのかもわからない。

 名称からしてうさんくさく、あやしげだが、それを熱心に集める〈鹿の角団〉のハーマンシュタインとやらの目的はなんなのか。

 いや、そもそもハーマンシュタイン自体も何者なのか?


 ……何者なのかといえば、ニーナの記憶にもぐりこむときに垣間見た(気がする)影絵のような少女はだれだったのだろう?

 確かに疑問は尽きず、終わりがない。


 すると、凛と胸をはっているジェラルドの横で、半笑いで口をぽかんと開けて、宙をぼんやりみつめているアルバートの阿呆面が目に入った。


「……なんだか頭痛がするわ」ルイがおでこをおさえながら目を閉じると、ディレンツァはいつものポーカーフェイスで応える。「脳に痛覚はない。気にするな」


 ルイは嘆息した。「はいはい、ありがと」


 ふとみると、漁船のそばを二羽の大きめのペリカンが通った。

(海にペリカンがいるんだっけ?)そんなことを思うと、急にバタバタと羽音が聞こえ、頭上でたくさんの鳥たちが編隊を組んで、遠くに飛んでいく影がみえた。

 そのせいで星空が明滅をくりかえしているようにみえる。


「すごい、知らない鳥がたくさんいる」アルバートが目をキラキラさせた。「ぼく、バードウォッチングが好きなんだよね」


「……そりゃよかった」ルイは目を細めて低い声をだす。「幸運だこと」


 嫌味のつもりだが、アルバートは気づいていないかもしれない。


「なんとか呪縛からは解放されたけれど、私たちは漂流の身ですけどね――」ルイはさらに毒づく。「でも、王子が楽しそうでなにより。展望があるならお聞かせ願いたいくらい」


 ルイの口調がだんだんきつくなったので、アルバートは若干どぎまぎしたが、すでに船尾のほうまで移動していった二羽のペリカンが目に入ると、ふたたび半笑いになりつぶやく。


「いや、もちろんそんなに幸先良い感じではないかもしれないけれど……なんていうか、手をとりあっていたあの二人が幸せそうだったから、それでいいんじゃないかな?」


 目を点にするルイをよそに、ジェラルドが満足そうにうなずいたので、結果悪態はつけなくなってしまった。

 ペリカンたちは遠ざかって闇にまぎれて消えた。


 ルイはむっとしながら船首のほうに向きなおる。

 それでも、ニーナとエドバルドの再会のすがたが、幸せと呼ぶにふさわしい光景だったことはいなめない。

 ルイがみずから話したところでいえば「宝物」と呼ぶべき瞬間だろう。


 異常事態ではあったが、特別な体験ではある。

 ルイはぼんやりと、二人の円舞を回想する。

 

 あの二人が最後に交わした言葉はいったいどんなものだろう――ルイはそんなことを思って、そんなことを思ってしまった自分に少し気恥ずかしくなった。


「あれ、どうしたの、顔が赤くない?」

 

 そして、腹立たしいことにアルバートが目ざとくルイの変化に、いち早く気づいた。


 ルイが「うるさいわね、なんでもないわよ」とかんしゃくを起こそうとすると、船首からマッコーネルの怒声がした。


「大くじらのやつめ!」老船長は鼻の穴をひろげて、ふんと息を噴いた。「つぎは逃しはせんからな――」

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― 新着の感想 ―
[一言] 最後がいいです。「白鯨」ですね。なろうで苦闘する自分達も「白鯨」に対するエイハブの様なものかもしれません。
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