62 そこにいてはいけない幻獣
翌日も、夜更けに甲板で笛を吹いていると、真っ暗な海からぼんやりした光をまとって、謎のウミガメがやってきた。
エドバルドはまるまったウミガメの仔をまえに、そのまま笛を吹きつづけた。
習得済みの曲の合間に即興で吹いたりもした。
デッキチェアに腰かけ、目を閉じてつぎの旋律をたぐりよせる作業に没頭した。
メロディはまるで風のように果ての空からやってきて、尽きることはなさそうだった。
暁の頃になると、ウミガメは海に帰った。
つぎの夜も、そのつぎの夜も、エドバルドは深夜をまわったら甲板にでた。
ウミガメの仔はどこからともなくやってきて、まるくなって演奏を聴き、そして帰っていった。
ある日中に「夜中にずいぶん熱心に練習してるじゃないか」と水夫が肩をたたいてきた。
エドバルドが返事に窮していると、「いい子守唄だよ、ぐっすり寝られるんだ」と水夫は笑った。
どうやら眠りをさそう音色らしい。
エドバルドは愛想笑いでかえした。
少なからずエドバルドの演奏に気づいている人もいるようだったが、邪魔されるようなことはなかった。
「おまえはどこからきたのかね――」
一度だけ、休憩中に声をかけてみた。
しかしウミガメは、つづきをねだるような顔つきをしただけだった。
会話は成立しない。
それでもいつの間にか、ウミガメを相手にした演奏会が、エドバルドにとっての癒しの時間になっていた。
毎夜のことで睡眠不足を招いているはずなのに、逆に元気になっているくらいだった。
ウミガメといるときは、ホームシックに起因するせつなさもわいてこなかった。
だから任期の満了が近づき、王都への帰港が決まったとき、エドバルドはうれしさのなかに少しだけ物足りなさも感じた。
まるで、長年つれそった友人との惜別のようだった。
それでもやはり、故郷への(そしてニーナのもとへの!)帰還に、心はたかぶっていたので、最後の夜にいつものように奏楽を終えると、「今夜で終わりなんだ」とエドバルドはウミガメに語りかけた。
ウミガメはなんの反応もせず、「またいつか逢えたらいいね――」とエドバルドがつづけるよりさきに、海に降りていってしまった。
ぼんやりとした光はすぐに黒い波にまぎれて消えた。
人の子のいう別離など、どこ吹く風という対応で、思わず笑みをうかべてしまったが、へんに名残り惜しくなってもこまるのでそれでよかった。
行きよりも帰りのほうがずっと早く感じた。
帰路も安泰で無難な航路に思えた。
これといって奇禍にみまわれなかったことがなによりだった。
もともと安全は保障されているということだったが、大海峡を通過したり外海にでたりする以上、絶対ということはやはりないだろう。
運にめぐまれていたにちがいない。
「先生がいなくなるのは残念だな」と浅黒い手で肩をたたいてくる水夫に、エドバルドは笑みで応えた。
徐々に帰郷を実感してきた。
ニーナが送ってくれた手紙の内容はすべて憶えていた。
だから、再会したらそのすべてに返事をしよう。
エドバルドは王都が近づくにつれ、会話のひとつひとつを脳裏で思い描いた。
謎のウミガメのこともニーナには話そう。
帰港前夜、内海の海流にのって、ゆらゆらと北上しているときに、甲板で潮風にふれると、その匂いはもうなつかしさにあふれていた。
エドバルドは古代オカリナをとりだし、なんとなく音階練習をしてみた。
そして手が慣れてくると、最初にウミガメに吹いた曲をつづけて吹いてみた――。
それがまちがいだとは夢にも思わなかった。
最後の一音が終わると、ふと甲板の空気が一変した。
全身が一気に汗ばむような粘着質な湿気をふくんだ風が吹き、それがあまりにも不穏で、どことなく不安をあおるものだったので、エドバルドの顔の血の気がひいた。
なんだか、いやな予感がした。
エドバルドは目を細める。
それは島嶼海域で肌に感じていた夜の風に似ていた。
すると、まさかの光景が目前にひろがった。
何度も目をこすったが、どうやらまぼろしではなかった。
あいまいに重なってゆれる黒い波の向こうから、ぼんやりとした光が現れたのである。
あのウミガメの仔だった。
ひさしぶりの再会だったが、なぜかエドバルドの背筋はぞくぞくと寒気がし、同時に「くるな!」と叫びたい衝動にかられた。
そうしなければいけない気がした。
悪寒で腰から下にちからが入らなくなっていたが、甲板の手すりにしがみつくようにしてなんとか身をのりだし、大声をはりあげようとしたが、それと同時に、猛獣の咆哮のような雷鳴がとどろき、エドバルドのかぼそい声はかき消されてしまった――。
そのウミガメがウミガメではないことは、パティにはすぐにわかった。
甲羅がないからとかそういう理由ではない。
人魚を追いかけて内海の上空に巨大なくじらを認めたときから、パティもまたエドバルドの思念や記憶を垣間見ていた。
なにかの目を借りていたのだろうが、内海の空では条理が狂っていたから、おそらく魔法はどこにでも存在していた。
「幻獣――」パティのつぶやきに、アルフォンスがちらりと目を向けてきた。
あるいは詩人もそれを理解しているのだろうか。
バレンツエラたちがなにをどこまでみて、どう思っているかは、パティにはわからなかった。
(それもただの幻獣じゃない……)
エドバルドは「そこにいてはいけない幻獣」を内海まで招いてしまったのである。
エドバルドが剣呑な空気に怖気をおぼえたのは、それが人間にとって禁忌にあたるということを、雰囲気で察したからにちがいない。
眠っている脳の奥深くの原始の部分が、畏怖で萎縮してしまったのだ。草食動物たちが、せまりくる野獣から死の匂いをかぐように。
だから皮膚があわだち、のどが渇き、立っていられないほどの無力感に支配されることになったのである。




