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60 いにしえの民のオカリナ

 月日がめぐり、商工会理事のパトロンの支援もあって、音楽家として成功し、それは富や名声につながったけれど、エドバルドの作風に影響をあたえるようなものは、ニーナをおいてほかになかった。


 知名度の上昇によりもたらされる出逢いは、握手をしたり、会釈をしたり、ごきげんをとったり、お世辞をいわれたりという、通りすぎてすぐに忘れてしまうようなものばかりだったのだ。


 それでもようやく「自分の音楽」がかたちになりそうな気がしていた。

 音楽活動のなかで、独自のものをみつけるには、さまざまな条件を要する。

 エドバルドは、パズルピースの描くものがみえたように感じたのである。


 だから、パトロンから従軍楽師の提案がきたときは悩ましかった。

 パトロンは権力者だったが、屈託のない好人物だったから、そこに他意がないことはわかっていた。

 ただエドバルドの音楽的事理を理解していないだけだった。


 心からエドバルドの大成を望んでおり、エドバルドの社会階級の上昇が、それを補完するものだと信じてうたがわないだけだったのだ。

 それは商行為としてはなんらまちがった発想ではない。


 ゆえにエドバルドは懊悩したのである。

 パトロンを説き伏せることはもとより、その意見を否定することさえもうしわけなかった。


 そばにいるニーナも、エドバルドの心労を透察しているようだったが、結局いつもどおりに接してきた。

 そして、だからこそ、エドバルドはひとつの決断をした。


 ニーナとの婚姻を機に、王都の音楽界から引退するのだ。

 多くのうしろだてをうしなうことになるし、出世の可能性をなくしてしまうかもしれない。

 それでも慣れない交友関係やしきたりで神経をすり減らして、二人でつらい思いをしながらつくり笑顔をしているよりも、ただ独自の音楽の完成さえめざせばいいのではないか。

 歴史に名が残ることもないだろうし、あざけりの対象になるかもしれない。

 それでも命までとられることはない。


 ニーナもまた繊細な心のもちぬしだったから、いつでも自分の歌い手としての地位を放擲できることをエドバルドは知っていた。


 従軍楽師の依頼を最後にして表舞台からの引退を表明する。

 ずっとわかっていたことだが、一人でその選択をするよりもずっと心強い気がした。

 二人で生きていけるならそれでいいと思えたのである。


 エドバルドは指環とともに水の国で婚約を意味するアマリリスの水差しをニーナに贈り、二人でそれからの人生について展望を語り合った。

 豪華客船で新婚旅行をするとか、海のみえる一軒家に住んでピアノを弾いて暮らすとか、年に一回は近親者やフロス、レポロを招いて演奏会をするとか、平穏で驚くことのない生活をしたいという純麗たる希望だった。


 王都の野心家たちなら軽蔑し、鼻で笑いそうな夢物語だった。

 それでもニーナはほほえんでくれた。

 心に聖域というものがあるのなら、二人にとっては海辺の家がそれだったのだろう。


 そこでは二人の好きなものだけが命をもち、無慈悲な悪意は遠くに追いやられる。

 頭上を覆う閉塞感や、胸をしめつける圧迫感をともなう野蛮な現実のなかで、幼稚で益体もなくても、二人がすがってこられた無垢な感性を、唯一守ることができる場所がそこだったのだ。


 そしてエドバルドは、一年におよぶ任務に赴いた。


 最初は生まれた土地を離れることに気もそぞろだったが、一ヶ月もすると船のゆれにも慣れ、濃い青い海、つよい陽射し、風の匂い、そして見知らぬ街や国などの新鮮な光景への関心のほうがまさってきて、仕事として慰安のために奏でていたピアノや弦・管楽器にも、徐々に独創性や想像力を働かせることができるようになってきた。


 豪胆でときに粗暴な軍人や水夫たちは、いままでエドバルドの周囲にいたようなタイプではなかったため、最初はおそるおそる接しているようなところもあったが、何度か夜の演奏を終えると、みんなが笑顔で話しかけてくれるようになった。


 エドバルドのくせ毛をさわってきたり、色の白さや腕の細さをからかったりする人もいたが、それはかれらが不器用で、それしか交流方法を思いつけないのだということを看破できたので、エドバルドは微笑をかえすことができた。


 乗組員たちの趣味嗜好はさまざまだったが、なるべくリクエストには応じたし、親しみを感じてもらえるように努力して関係をもったおかげで、ほどよい人間関係を築けた。


「先生はお堅い連中とはちがうね」とにんまりする水夫に、愛想笑いでかえす。

 ほんとうはストレスだったけれど、自分にうそをついているうちに、なんとかそれをつらぬけそうな気がした。


 演奏会は船上だけではなかった。


 水の国では女王宮にて「銀の水差しとアマリリス」の風習の生みの親である王女のために演奏する機会があり、エドバルドはピアノ協奏曲を宮廷楽団とともに披露した。


 感受性ゆたかで気取り屋の王女はいたく感激し、「構造上すぐれたものが至上ではなく聴覚的によい響きのものがすばらしいもの」というエドバルドの発想を激賞し、ふしぎな文様の絨毯や毛氈、きれいな食器や地酒の水瓶などを特恵として贈呈してくれた。


 それによって、船内でのエドバルドの評価はさらに高まった。


 アルコールは偉大で、いままでエドバルドを遠巻きにしてきた人たちも、にこにこと接してくれるようになった。

 エドバルドは酒には手をつけず、すべて水夫や軍人たちに提供し、絨毯や食器はパトロンへの謝礼とし、自分は蝶をモチーフにした銀細工付の水差しだけをニーナへの手土産用に取り置いた。


「――これは、私がデザインした銀細工です。風の流れを感じとれるようなみごとな蝶でしょう? 火の国の巨人族に依頼して造作していただいた貴重な品です。そんなに数はありません。これを手にして喜ばない女性はいないでしょう」とほほえむ王女の意見を鵜呑みにしたのだった。


 各地の演奏会もおおむね成功し、招待の数も増えた。

 住む場所もちがえば、人のありかたもちがい、演奏の反応もやはりさまざまで、故郷を忘れたことはなかったが、あまりに忙しく、たまにニーナからの手紙がまとめてとどいたが、緊急の要件がなかったこともあり、つい返事をあとのばしにしてしまった。


 あとまわしにすることで書きたいことがたまり、帰郷が近づくにつれてさらに書きづらくなり、最終的には書けずに終わってしまったけれど……。


 大海峡をぬけて、火の国の島嶼海域に入ると、人々の様子もさらに一変し、服装や肌の色だけでなく、訛りや文化にも変わったものが多く、土着の音楽もふくめてエドバルドはその多くに感銘を受けた。

 世界は想像するよりもずっと多様で、エドバルドは熱心にみずからのルーツについて考えたりもした。


 そして、ちいさな島の金満家の誕生会に招かれて演奏をしたあとに、エドバルドは報酬として、あまりみたことがない横笛をもらった。

 昆虫を模したような、ふしぎな形状をしていた。


 朱色のターバンを複雑にあたまに巻きつけた浅黒い肥えた男はにんまり笑った。

「それはいにしえの民が精霊を呼びよせるために使っていたというオカリナだ。私は音楽が好きだから楽器もいろいろ集めたが、めずらしい品だというからあなたに差しあげよう。ちなみに試しに吹いてみたが精霊などやってこなかった。音色もとりたてて変わってはいない。もっとも、それでいいのだろう。へんなものを呼びだしてしまってもこまる――」


 儀式や祭祀用で、常用楽器ではなかったのではないか。

 エドバルドはそんなことを思い、その夜、船内の自室で吹いてみたが、確かにとくべつな音はしなかった。

 むしろ製作精度の低そうな代物だった。


 それでも、そのオカリナを利用した曲の構想などはすぐに思いついた。

 音域を確認し、2、3のフレーズを吹いたあと、窓からぎらぎらした原色の星がちらばる夜空をみて、ずっと太古の人々が笛の音にあわせて輪になって踊っているところを想像したりした。


 しばらく悪天候がつづき、船酔いと恐怖で自室のベッドにしがみつくような日々も送ったりしたが、最終的には無事に任務海域に到着した。

 エドバルドの船は、群島の南西海域の治安保全のために配置された。

 貨物船や漁船の保護が目的である。


 多島海・島嶼海域は諸国との貿易が盛んだったため、海賊が頻出しており、火の国の海軍だけでは制海権をにぎることができず、他国の助力も必要としていたのである。

 昔はそれにくわえて竜の出没地域だったこともあり、王都海軍の外海遠征は由緒ある軍役といえた。


 エドバルドのスケジュールはそれまでどおり変化なかった。

 昼間は仮眠をとったり、譜面を書いたり、器楽の練習をしたり、旅路で集めた資料をまとめたりした。

 ときどきニーナのなにげないしぐさや、はにかむ表情などを思いだして、胸の疼きをおぼえたりしたが、なにをどう表現したらいいのかわからないこともあり、手紙はついに書けなかった。


 夜は船上や近隣の島で演奏会をした。

 どこでも評判は上々で歓待された。

 ときどき、火の国で活動している著名な作曲家や演奏家が、エドバルドの軍役を聞きつけて訪問してきた。

 だれもが熱心に音楽にたずさわっていることに感銘をうけたりした。


 やがて季節も移り、冷たい風が吹く冬が終わって、温暖な季節がきた。

 もともと平均気温が高めの地方だったので、寒さはすぐにやわらいだ。


 船上行事に従事しながら、エドバルドは哲学者のようにルーティンの日々を送っていた。

 地道にこつこつと取り組むことが肝要だと、みずからに言い聞かせていたところもあったし、そうすることがいちばん精神を安定させたのである。

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