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51 癒やせない悲しみの旅

 演奏会から一週間後、エドバルドは軍務についた。

 エドバルドは軍船に乗りこみ、手をふって出発していった。


 そこから一年の職務期間はとても長く、そしてニーナにとっては孤独な期間だった。

 もちろん平静をたもって過ごすことはできたし、うつろな気持ちになって周囲に迷惑をかけていたということもなく、音楽会に招待されれば足をはこんだし、歌もうたい、後宴にも参加した。

 音楽仲間にかこまれて過ごす機会は増えた。


 それでも、やはり孤独だった。

 大勢のなかにいるほうが、エドバルドの不在がきわだってしまった。


 手紙は何通もだしたし、眠れない夜を散歩して過ごしたこともあった。

 しかしなんの発見もなく、手持ちぶさたで、毎日がつまらなかった。


 エドバルドがそばにいたところで、愉快なできごとがあるわけでもないのだが、やはりつまらなかった。

 手紙は一通もかえってこなかった。

 そうして長い月日を待ちつづけたけれど、結局エドバルドは還ってこなかったのである――。


 エドバルドの軍船が帰航してくる直前に、王都近海は大時化に見舞われた。

 黒い雲が重くたちこめ、強い風がそれを奇妙な怪物の顔貌のようにうごめかせた。

 そのゆがんだこわい顔は、悪夢に登場する悪魔のようだった。


 雨は強弱をくりかえし、人々を動揺させた。

 軍船は〈王の桟橋〉に帰港する手はずだったので、ニーナは予定日より早くから近場の客亭にひかえていたが、悪天候で外出さえできない状況になった。


「船はもうだいぶ近くまできているようだが、どうも足どめをくっているようだね。波が高くて不安定だから着港判断できずにいるらしい」と亭主が苦々しく説明してくれた。

 ニーナは微笑で応えた。


 しかし、夜明けにおとずれた未曾有の暴風雨によって、王都湾岸と軍船は壊滅してしまう。

 

 あまりにも凄惨な事件だったので、ニーナの記憶は混乱して、めまぐるしく想いが錯綜したせいで、ルイはそれをうまく消化することができなかった――。


 ただ、視線は固定されていることが多かった。

 それは宿亭二階の台形出窓からの光景だった。

 雨がやんだあとは晴れたり曇ったりしたが、ニーナは出窓から海をみつめつづけていた。

 

 心象はモノクロームだった。

 ルイはこのいいしれぬ感情を知っていた。

 これとおなじ惨状にいて、似た境遇だった人物の記憶を垣間見たことがあるからだ。

 

 だからルイは、そのときとおなじように、静かにつぎの展開を待った。


 結果エドバルドにかぎらず、提督をはじめ多くの海兵、水夫たち、それから湾岸警備兵や船舶業務従事者たち、一般市民たちが行方不明になった。

 死亡を確認された者もいるが、それにいたらない者も多く、そして港の復興には長い時間を要するとのことだった。


 ニーナはただ口をつぐんでいた。

 無感情に時は流れた。


 ――やがて、どこかからトランペットが聞こえた。

 ベッドにこしかけて呆然としていたニーナは、しばらくその旋律に耳をすませたのち、たちあがって出窓をこじあけた。


 少し湿気のある潮風が頬をくすぐる。

 きれいな夕焼けだった。

 トランペットはまるで、街を透明のベールでつつみこむように鳴り響いていた。


 だれかが尖塔のうえから吹いているのだろう。

 知らない曲だが、ずっと昔に聞いたことがあるような気もした。

 やけにのどが渇いたので、水差しをとってコップで一杯だけ水を飲んだ。

 それからまた、ニーナは音色に耳をかたむけた。


 やがて空腹をおぼえたので、階下におりて食事をした。

 亭主たちは厚遇してくれた。

 ニーナは二週間以上ぼんやりと過ごしていたらしい。

 宿のお手伝いさんたちが、かいがいしく面倒をみてくれたので衣食は最低限できていたが、ニーナはやつれていた。


 実家の使者やレポロ、フロスたちが、かわるがわるたずねてきてくれていたのをなんとなく思いかえす。

 使者はとにかく両親の伝言として「帰宅しろ」と連呼した。


「切り替えるしかない。人間はそうやって生きていくしかないんだ」レポロはそんなふうにまくしたてた。

 フロスは同情を顔にうかべ、「君が立ち直ることをエドバルドも望むはずだ。悲しみは癒えなくても、それがエドバルドを想う意味だよ」と説き伏せようとした。


 ニーナは食事を終えてから外出した。

 トランペットの演奏が終わり、夕闇につつまれた港はみょうに静かだった。

 潮風はゆるやかにニーナの髪を通りぬけ、まるで何事もなかったかのように、たちならんだ多くの旗をゆらしていた。


 港を横断して浜辺のほうまで歩いた。

 到着した頃には、海も空も暗かった。

 月あかりだけが頼りだったが、ニーナは黙々と歩いていった。


 あまり複雑なことは考えられなかった。

 夜更けに宿屋にもどると、亭主が起きて待っていてくれた。「死ぬんじゃないかと思ったぞ!」

 ニーナは微笑する。

 亭主は目をくるくるまわした。「最近そういう人がちらほらでてるらしいんだ」


 あまりにも犠牲者が多いから、悲しみが癒せない人も多いのだ。

 どれだけ時間が過ぎても、切り替えられない人もいるのだろう。

 ニーナはそう思った。

 だから帰ることができない人もいる。

 ほんとうに帰るべきところを失くしてしまったのだから――。


 ニーナは翌日実家にもどって、荷造りをした。

 旅にでることにしたのだ。

 父親は大反対したが、最終的には母親がそれを説得して、ゆるしをもらった。「もう大人なのだから、気晴らしになるならそれでいいでしょう?」


 ただし、世代の近い側用人が一人同行することが条件だった。

 一人ではなにもできないニーナは、むしろ好意的に了承した。


 あまり会話をしたことがない娘で、最初はニーナが声をかけるだけで緊張しているようだったけれど、そのくらい距離感があるほうがニーナもよかったし、そのおかげか、しばらくすると同世代らしく気兼ねなく接することができるようになった。


 船旅をするつもりはなく、ニーナは交通手段に馬車を選んだ。

 旅さきから手紙を書くことにして、フロスやレポロにもあいさつはしなかった。


 目的地は水の国に決めていた。

 エドバルドと語り合った夢の辺境が実在するか、内海に沿って周遊してみたくなったのだ。


 街道を二頭の馬にひかれ、ゆったりした速度で進んでいるだけだったが、住み慣れた王都を離れることが新鮮だった。

 草原一面が赤く染まるほどの夕陽がみられたり、遠くの山脈から吹いてくる風がここちよかったり、海辺を通るときは水平線がうかがえるときもあった。


 野鹿の死骸にハイエナが群がっているのをみたり、土の小人たちが掘りかえしたという巨大な穴をのぞいたり、沼地では無精ひげを生やしたカエルの妖精に驚いたりした。


 霧雨がふると、まるで時がとまったかのようにひっそりした海をみつめながら二人とも無言になり、馬蹄と雨粒が幌をたたく音しか聞こえなくなった。

 ニーナは黙ったまま、ずっと海をみつめていた。


 やがて、ニーナたちは〈珊瑚礁の町〉にたどりついた。


 高台から浜辺のほうをみつめていると、町の女婦が通りかかり、人魚の伝説を教えてくれた。

 ニーナは無表情で聞いていたが、側用人は人魚マティスとニーナに相似性を感じていた。

「ちょっと離れたところだけど人魚の研究者がいるのよ。崖があってね、その下にきれいな入り江があるの。興味があるならいってみるといいわ」と女婦は柔和にほほえんだ。


 そうしてニーナは、人魚の研究所までやってきた。

 のちに資料館を併設することになるが、そのときは研究者の住居だけだった。


 しかし、遠くからその洒落た建物をみたとき、ニーナはみずからの目的地がそこだと確信した。

 エドバルドと語り合った夢の新居に、とても似ている建築物だったのだ。


 設計したのは研究者自身で、人魚の絵本の世界観をイメージしたのだという。

 研究者の先生も、ニーナが滞在したい事情を説明すると、こころよく承諾してくれた。

「ここは人魚の究明を目的とした施設だったが、資料も口伝も少ないため、ただの博物館になりつつある。だから気兼ねなく逗留しなさい」


 日々、ニーナがうれしそうにしていたので、側用人もすっかり油断してしまった。

 ニーナが断崖より落水したのは、それから一週間後のことだった――。

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