50 とびきりの協奏曲
出発を一ヶ月後にひかえた夜に、エドバルドはニーナに求婚をもうしでた。
夕食を広場のなじみの店でとり、繁華街をなんとなく歩いてぬけて、いつもの鉄橋の途中でのことだった。
いままでずっと緊張の場面では発汗し、どもり、挙動不審になり、わずかな段差でつまずいてころぶほどにとりみだしていたものだが、その夜にかぎってエドバルドは、風にゆれるやなぎほどの動揺もみせなかった。
少し欠けた月が夜空にうかび、街のあかりを反射する川面を背後にしてみると、目や口もとのしわで、エドバルドもすっかり大人になったことがわかった。
「もう決まってしまったことだからこの遠征には参加するけれど、これが終わったらもっと静かに暮らしたいと思う」エドバルドは淡々と語った。「どこか田舎に引っ越してもいい」
もうずっと熟慮してきたのだろう。
「でも――昇任の件はどうするの? せっかく、ここまでがんばったのに」
名誉貴族の称号を得れば、エドバルドの評判はさらに高まるにちがいないし、なにより楽曲だって世間にひろまるだろう。
「名声は作品とは関係ないさ」エドバルドは目を細めて微笑した。
王都のしがらみから離れる決意をすれば、おそらくエドバルドはその界隈から、かやのそとに置かれることになるだろう。
作曲はできても、それまでのように発表して評価を得ることは難しいにちがいない。
それはいままで王都にいたエドバルドには、痛いほどよくわかっているはずだ。
「ぼくはずっとさきの未来で、知らない人たちのあいだで語りぐさになるような偉大な人物になりたいわけじゃないよ」とエドバルドはつぶやくようにつづけた。
その、もろく、はかない笑顔は、もともと病的な目つきもあいまって悲愴だった。
エドバルドは暗い水面に目を落としていたから、唐突にニーナが背中から腕をまわしてきたことに驚いた。
ニーナはその抱擁の強さで、エドバルドのいかなる決断にもついていくことを意思としてつたえた。
強く密着していたから、ニーナはそのときエドバルドがどんな表情をしていたかは知らない――。
そのあと気持ちの昂ぶりからか、港のほうまで歩き、夜の船をながめながら真夜中まで将来のことを話し合った。
新婚旅行は最近〈王の桟橋〉で進水式をして話題になった豪華大型帆船で大陸周遊をしようとか、住むところは風がここちよい海辺の町がいいとか、新居はおしゃれでかわいらしい一軒家がいいとか、ピアノが一台ほしいとか、年に一度はレポロやフロス、それに家族を招いたりして演奏会をしたいとか、そんなとりとめのない夢語りだった。
「後援者たちには作品を捧げることでゆるしてもらおう」エドバルドがうすく笑うと、ニーナは「それじゃ、とびきりの傑作にしないとね、それこそレポロがうなるぐらいのやつ」とプレッシャーをかけたりした。
翌日エドバルドは婚約の証として、その時分恋人たちのあいだで流行となっていたアマリリスを活けた銀の水差しをニーナに贈った。
この風習は、水の国の王女の発案にもとづくもので、恋人同士がそれぞれの部屋に水差しをかざり、恋焦がれる夜にアマリリスのラッパ状の花に耳をかたむけると、花弁から恋人の愛のささやきが聞こえてくるという夢想からうまれたものだった。
世辞に疎いエドバルドがそんな流行にのったことに、ニーナは噴きださずにはいられなかった。
そして水差しには手紙もついており、つぎの演奏会でニーナのためのピアノ協奏曲を披露することを約束していた。
とびきりの傑作だよ、エドバルドはそう書いていた。
そして、その発表が大成功に終わったところを、ルイはニーナの目を通してみることができたのである。