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47 名まえを知るや否や

 どこか深いところ、それこそ海底にでももぐりこんでいくかのような感覚があったので、ルイはいったん呼吸をとめて瞑目していたが、ふと圧迫感がなくなったので目を開けた。


 身体が宙に浮いていた。

 ルイは空の高いところをただよっていたのである。

 海底どころのさわぎではない。


 白い雲がまわりに浮かび、ほんとうに鳥になって風にのっているみたいだった。


 首筋からえりあしに風がすりぬける感覚があったが、ルイは自分の意識だけが、空をとんでいることはわかっていた。

 〈月の城〉のときとおなじ経験なので、だれかの心、あるいはだれかの記憶、そんな世界にいることは想像できた。


 みたくないものをみることになるかもしれない。

 それでもみたくないものほど、ふしぎと目をそらすことができなかったりする。


 眼下には広大な街がひろがっている。ルイは鳥瞰で街を見おろしていた。


 色とりどりの屋根をした住居や塔、店舗や施設がたちならんでいて、そこには旗がたち風にゆれている。

 ルイはほんとうに鳥になったみたいに滑空していたが、やがて高度をさげ、目線はするすると敷石の舗装路までおりてきた。


 街の主要道路のひとつだった。

 両側にはレンガづくりの住居や商店が列をなし、そのさきには広場がある。

 そこは王都西部の一角だと思われた。

 広さよりも高さに重点を置き、附属室をかまえる教会主導による装飾建築様式が多い。

 高級住宅街として地価が高騰しているためそうなるらしい。


 礼服に身をつつんだ男たちを乗せた二頭だての馬車が路地をとおり、ルイはその馭者とちょうどおなじ高さをとんでいた。


 装飾様式は虚飾や堕落などと悪評も絶えないそうだが、季節の草花が植えられた目抜き通りにとても映えている。

 往来の人々も上品そうで、ルイは気分がよくなった。


 ふと鍵盤の音が聞こえる。

 風にのってただよってきた香辛料の匂いのように、ささやかな音色だった。


 すると、それにみちびかれるように、ルイの意識は路沿いの音楽堂に入った。

 外観は聖堂のような石造りで、屋根に大きな青銅の鐘もついている。

 内観も交差ヴォールトを架けた天井に天窓がうがたれ、真鍮製のシャンデリアがさがり、そのあかりの下に豪華な客席がならんでいた。

 厳かな雰囲気は、なんとなくだがルイが漂流船でみた多目的ホールに似ていた。


 ルイはやがて舞台から二番目の列の、すみの席にいる女性客に同化した。

 女性はうしろすがただったが、入り江で遭遇した女性だということはわかった。


 目前のステージは一段高くなっており、各種弦楽器をかまえた演者たちが椅子をならべていて、舞台端にはグランドピアノがあった。

 真黒の側板と大屋根は、鏡のようにきれいに磨かれている。

 女性の視線はそのピアノにだけ向けられていた。


 そして、ルイは気づく。


 ピアノの席に坐っているのはエドバルドだった。

 崖のうえの瀟洒な一軒家でみた、ちいさな肖像画の顔つきとすぐに一致したのである。

 どこか暗鬱な表情をしているところもおなじだった。


 顔色は病的なまでに青白く、いかにも具合がわるそうだったが、長い協奏曲の最後の和音を弾き終えた瞬間から血色がよくなり、瞳には光がもどってきた。


 くせ毛がひたいにはりつくほど汗ばんでいて、卑屈なほど猫背だったが、女性はそれをとても誇らしく見守っていた。

 ルイにはそれが多幸感としてつたわってくる。


 やがて、聴衆たちの拍手喝采があがる。

 エドバルドは照れからさらに表情をこわばらせた。

 会釈をくりかえすものの、身体が硬直していて滑稽だ。


 しかし女性は、保護者のような思慮深いまなざしでそのすがたをみつめていた。

 ルイはこの女性が、エドバルドの意中の人にちがいないと考えた。


 するとその瞬間、舞台が暗転したかのように視界が暗くなる。

 そして、そのうす闇のなかに、まるで影法師のように小柄な少女らしき輪郭がうかびあがり、わずかに垣間見えた口もとが「――ニーナ」とつぶやいた。


 ルイが目をぱちくりさせると、舞台はすぐに明るくなり、エドバルドは照れ笑いをうかべていて、少女の幻影は消えてしまっていたが、ルイは「ニーナ」が同化している女性の名まえだと確信した。


 そして名まえを知るやいなや、ルイの脳裏に、ニーナの人生のいくつかの情景が映りこんできた。

 

 あらがうことなどできないし、耳から強引に液体を流しこまれているみたいな気分だったが、ルイは享受する覚悟をもって、目を大きく見開いた――。

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