45 野性的な事理
人魚マティスの目を通して、パティが最初にみたものは、青一色の空だった。
人魚は海にいた。
海面から顔をだして、空を見あげていたのだ。
視界はつねに波と波のあいまでゆれて、ときどき水面下にもぐってしまう。
尾びれでもって、波にあわせて立ち泳ぎをしている状況だった。
しかし人魚の心は、まるで深海でうなだれているような悲哀に充ちていた。
もっとも人魚がそんな心情になっている要因は、彼女が「最後の人魚」だからではない。
人魚には孤独の観念はなく、パティが感知したものは、もっと野生的な原初の事理だった。
つまり、ただ単に「哀しい音」を聞いたことによる気分の変容だったのである。
そもそも人魚は、だいぶまえから種として絶滅寸前だった。
仲間は知らないうちにいなくなっていた。
しかし人魚には、ほかの個体への執着も、時間的記憶もまるで残っていない。
ほかの個体に、本能以上の関心をもたない人魚は、絶滅に関してなんの感情ももってはいなかったのである。
同種族がいないという事実は、それ以上でも以下でもない。
それは人魚が人間ではないからだった。
長期間にわたる人間たちの景観整備や埋め立てによって、ずいぶんと入り江は棲みづらくなり、じっさい仲間はいなくなってしまったが、人魚はそれによって悲嘆に暮れるような人間性はもちあわせていなかったのである。
人魚の感情が変調しているわけは、昨日聞いた歌のせいだった。
人間の女性の歌である。
人魚が入り江に沿って泳いでいたとき、どこからか聞こえてきて、音をたどっていったら、それは崖のうえだった。
人魚は手近な岩棚に身をのりあげて腰かけ、しばらく耳をすませていた。
ゆるやかな潮騒を伴奏にするみたいにして、人間の高い声は響きわたっていた。
人間は多くの休符をはさみながら、まるで深呼吸をするように歌っていた。
人魚には歌詞が意味するところはわからない。
しかし、人魚を通してそれを聞いたパティには、それが恋の詩だということがわかった。
古い言葉づかいがあるが、それゆえに奥ゆかしさがある。
人知れず、日が高いうちに歌うには少し不釣合いな、はげしい恋の歌だった。
「熱烈な恋に昼も夜もないさ」とダグラスならほくそ笑むだろうか――。
それから陽が暮れて、水平線のかなたが夜につつまれるまで、人間はときに声をはりあげ、ときにひかえめに歌いつづけた。
人魚は目を閉じて、その変わった旋律に身をゆだねていた。
人魚はそれを交尾のようだと感じていた。
パティはそれに同調することはできなかったが、気持ちがつたわってきて赤面する。
全身がいっきに熱くなるような感覚をおぼえる。
最後は悲恋に終わる詩だったが、足さきまで気が昂ぶった。
気づいたら人間はいなくなっていた。
夜空には星がちらつきはじめている。
人魚はもう一度だけ崖のうえをうかがってみたが、だれもいなかったので、すぐに海にとびこんで消えた。
執着がなくなったのである。
人魚はそのあと翌朝まで、アコヤ貝やエビを食べたり、海流にあわせてぐるぐる泳いだり、珊瑚のなかにこっそりかくしてあるアクアマリンを確認しにいったり、海面から顔をだして鼻歌をうたったりした。
しかし夜が明けると、ふと昨日の歌声を思いだした。
きっかけは沖の漁場あたりで旋回していたノスリの鳴き声だった。キョーッキョーッ。
印象的な連呼だった。
それがそのまま、昨日の人間の歌声につながったのである。
人魚は一定の散歩コースをまわる犬のように崖に向かった。
うきうきはしていない。
ただなんとなく、いままで味わったことのない(それはパティからすると哀しい)気持ちになる歌を、もう一度聞いてみたくなったのだ。
波にゆれる海をするりするりと泳ぎ、崖の下までやってきた。
昨日とおなじ岩棚に腰かけて崖を見あげてみたが、だれもいないようだった。
人魚はそれでも気にせず、白い波をたてる海をみつめていた。
パティはその景色をとてもきれいだと感想をもったが、人魚はなにも感じていなかった。
ときどき、カモメの群れが全員おなじ方向に向けてとんでいった。
ときどき、まるで地球が大きくかたむいたのではないかというような高い波が何度か押し寄せてきて、パティは驚いたりした。
人魚はおなじ体勢のままじっと動かず、ときおり尾びれを数回ゆらしたりしただけだった。
風もおだやかで天気もいい日だった。
パティはなんとなく〈魔導院〉での日々を思いかえしていた。
こんな日にキャンプをしたこともあった。みんな興奮して赤い顔をしていて、セルウェイとストックデイルは口論ばかりしていたが、パティもフリーダも笑ってばかりで仲裁することもなく楽しく過ごした。
たき火もしたし、夕飯をつくるときも、はしゃいで怒られてばかりいたし、夜も長く、空気が親密だった――。
しかし、崖のうえから聞こえてきた女性の歌声で、その回想がとぎれた。
人魚は顔をあげる。
高い崖だったので、人相まではわからなかったが、女性の歌声は波状的に聞こえてきていた。
詩のフレーズのひとつひとつが、呼吸とともにつたわってくる。
人魚はぼんやりと、その歌に聴き入っていた。
人魚の思考はわからないが、パティにも人魚が愉しんでいることはなんとなくわかった。
パティもそれに同調できるようこころがけた。
どのくらい経った頃か、歌が突然やんで、直後にすごい速度で目前に影がふってきた――。
大きな鳥が急降下してきたのかと錯覚するぐらいの勢いで、パティは思わず目を閉じてしまったが、人魚は冷静にそれをとらえていた。
派手な水しぶきをあげて海に落ちてきたのは、きれいな声のもちぬしである人間の女性だった。
さすがにその落水音と水沫にびっくりして、人魚は身をよじる。
身体をかばうように動いたことで、胸に手があたり、その乳房が大きくてパティは驚いたりした。
人魚はしばらく水面と、そこにたったあぶくをみつめていたが、ふいに海にとびこんだ。
パティは単純に助けなければいけないと焦っていたが、人魚が行動した理由がどういう心理によるものかはわからない。
ただの、ものめずらしさかもしれない。
そこが崖の下だったせいもあるのか、女性はさかまく離岸流にのまれ、思いのほか海底のほうまでひっぱりこまれていた。
人魚は全身をはげしく動かし加速して近づく。
全身気泡まみれになり、つむじ風に巻かれる木の葉のようにゆれている女性は、すでに生気をうしなっていた。
顔に長い髪が巻きつくようにかかっており、海草のようにゆれている。
女性の落水が事故なのか故意なのかは、パティには判断できそうもない。
しかし、人魚がその髪をかきわけて、女性の顔をのぞきこんだとき――ほんの一瞬だけ、女性がかたく閉じていた目を開けた。
パティはその顔に見覚えがある気がして、はっとする。
女性が人魚を認識したのかどうかわからないが、パティは人魚の目を通して、女性と目が合ったような気がした。
パティは女性のことを思いだした。
かつての新進気鋭の作曲家の恋人にして、売れっ子ソプラノ歌手だった人物である。
その名は、「ニーナ――」。




