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44 一輪のアマリリス

「人魚――」というパティのつぶやきに、バレンツエラたちが困惑し、言葉にならない感嘆をもらす。


 それをみてアルフォンスが目を細めた。「マティスだ」


「……それって公式記録の最後の人魚よね?」ステファンの問いかけに、詩人はうなずく。


 上半身の透きとおるような肌も、光沢を放っているかのように美しかったが、下半身のうろこが、洞内の無数の光を反射してぎらぎらかがやいているさまが、なにより鮮烈だった。


 長い髪は海草のようにうねり、乳房をおおい、尾びれ近くまで達している。


 岩に腰かけているしぐさや、なめらかな手つき、華奢な腕はたおやかだったが、顔つきというか、パティがまっすぐみつめた人魚の瞳は、あまり人間らしさをもっておらず、どちらかといえば動物、もっといえば魚のそれだった。


 脚を除くすがたかたちが人の形状をしているだけである。

 みんながそれを感じたにちがいない。


「どうして?」ステファンが声を裏返らせた。「なぜマティスがここにいるの? ずっといたの? だったらおかしくない?」


「そう、そうだ。絶滅宣言がなされている」バレンツエラもうなずく。「もう観測されなくなってから、半世紀以上が経過しているのだ――」


「じゃあなんで? 偶然? むしろこれは夢か?」ダグラスが笑う。しかし無理やりだったらしく頬がひきつっている。


 アルフォンスが答えた。「ずっとここにいたのかどうかはさだかではない。だが、ここにいたのだとしても、遭遇できなければおなじことだ」


「なにそれ、どういうこと?」ステファンが濡れた髪をはらう。


「今夜しか逢えなかったということさ」アルフォンスは目を細める。「理由は雨がふっているからかもしれないし、彼女が歌ったからかもしれない。私が呼びかけたからかもしれないし、君たちがやってきたからかもしれない。あるいは条件などないかもしれない」


「でも、その歌を聞くことができた人だけが、人魚のいる入江にみちびかれるのですね?」

 パティが急に会話に参加したのでみんなが驚く。

 アルフォンスは微笑した。


「――歌なんて聞こえた?」ステファンが訊ねると、「歌というより奇妙な胸騒ぎみたいなものは感じたような気がするな」とダグラスが腕組みした。「いま思うと魔力みたいなものだったりして」


 ステファンは両頬をおさえて目をまるくする。「え、あなたにわかって、私にわからないとかショックなんだけど……」


「いや、きっとステファンも感じていたはずだ」バレンツエラが指摘する。「はっきりと明言できるような感覚ではなく、もっとあいまいな、遠くの海から響いてくる波紋のような知覚としてな」


 パティは施設で感じていた呼び声のような、あるいはさざなみのような魔力について説明したいと思ったが、あたまのなかでいまいちうまく整理ができない。

 感じたことを表現するのはとても難しいことだと悟った。


 瞬間、はげしい風の音が聞こえ、パティは思わず顔を左手で守った。


 直後に水をはらんだ突風が、強い衝撃とともに全身に吹きつける。

 右肩のモカが飛ばされないように、パティの頚にしがみついた。

(な、なんなの!?)


 風がやんで手をどけると、パティは全身ずぶぬれだった。

 モカも体毛がごわごわになった状態で、パティにしがみついている。


 しかし、びしょぬれになっただけで助かったのは、目前のアルフォンスとバレンツエラが、大樹のように立ちはだかって、かばってくれていたからだった。


 人魚が水属性の攻撃をしかけてきたらしい。

 ようやくパティも理解した。

 髪や外套から水滴をたらしながら立ち尽くしている詩人と隊長のうしろすがたは鉄壁にみえて、パティは心を痛める。


 バレンツエラは足もとの岩と岩のすきまにつきさした剣の鞘をささえ棒にして身体を固定し、身を低くすることで耐えたらしいが、線の細いアルフォンスがどうやって逆巻く水流にもちこたえたのかよくわからなかった。


 アルフォンスは目を閉じて小声でなにかをつぶやいていたが、パティにはよく聞きとれない。

 魔法なのか――?


 そこまで考えてステファンとダグラスがいなくなっていることに気づき、パティがふりかえると、二人は遠くに吹きとばされてしまったようで、ステファンはひざをかかえこむように坐りこんで右足首をおさえていて、ダグラスは水たまりで溺れたアマガエルのようにひっくりかえっている。


 ステファンは顔をしかめているが、ゆるゆる体勢を変えるダグラスもふくめ、大きいダメージを受けているようにはみえない。


 パティは人魚をふりかえる。

 なぜ率爾に攻撃されたのか――その疑問は、人魚の目をみたらわかった。


 人魚の瞳は野性を宿していた。

 要するに人間たちが不用意に近づいてきたから反発したといった敵意である。

 縄張り意識もあるのかもしれない。


 そこまで把握したところで、パティは人魚と目があってしまい、それと同時に水と風の攻撃がふたたびくりだされた。


 パティは思わず悲鳴をあげてしまったが、結局アルフォンスとバレンツエラが再度、盾になってくれる。


 人魚の攻撃は執拗にくりかえされた。

 魔法のような効用をもたらしているアルフォンスの吟唱によって、風力や水流はだいぶ緩和されていたが、バレンツエラの腕や顔には切り傷ができ、出血してきている。

 嵐のなかにとりのこされたみたいで、このままでは逃避することさえできない。


(どうしよう……)パティは動転しながら必死に考える。

 みずからがお荷物になってしまっている悔しさもあった。


 すると、モカがにゅっとパティの目のまえに顔をのぞかせた。

 視界いっぱいの小ザルの顔にちょっと驚く。

「どうしたの――!?」


 モカは、パティの瞳をじっとみつめていた。

 モカの瞳のなかに、みずからの顔が映っている。

 するとまばたきをした瞬間、パティは小ザルの思考を読みとった。

 しかし、あまりに無茶な意見だった。

「人魚のまえにとびだせって!?」


 バレンツエラが瞠目してパティをみたが、それにより注意がそれたせいかよろめいた。「モカがそう話しているのか!?」


「あ、えっと――」パティがとまどっていると、モカが「キキッ!」といつになく高潔な顔つきで返事をした。


 バレンツエラはひたいにうかぶ汗をぬぐう。

 それからアルフォンスをうかがったが、詩人は沈思するようにまぶたを閉じたまま朗唱しつづけている。


「アルフォンス殿、無理を承知で願いたい。ほんの数瞬、私に時間をくれないか。モカになにやら算段があるらしい。それを実行したい――」

 バレンツエラが提案すると、アルフォンスは口を動かしたまま少しだけ目を開ける。

 そして声量をあげた。


 それによりアルフォンスが、パティの知らない(おそらく古代の)言語で歌っていたことがわかった。

 強いちからをもつ詩なのだろう。

 パティの知る魔法とはちがうのかもしれないが、まるで魔法だった。


 なぜなら詩人の口がつむいだ言葉が、けむりのように可視化し、大きな風船のようにすがたを変えて、人魚の水と風を、飴の包装紙のようにつつみこむ様子がはっきりとみえたのである。


 詩人の古い歌によって、人魚の攻撃が無効化されようとしていた。


 パティが手品をみる子どものようにぼんやり口を開けていると、「いまだ、こっちへ!」とバレンツエラが叫んだ。


 パティはわれにかえって、バレンツエラが差しだしている右手をとった。


 すると、ものすごい腕力で全身をひっぱられる。

 たんぽぽの茎がひきぬかれるような強引さで、パティの身体はバレンツエラの胸におさまる。

 その大きな手に幼い頃、父親に抱かれたときのことを思いだした。


 しかし、そんな悠長に郷愁を感じている場合ではない。

 バレンツエラの腕や顔は傷だらけだし、目は充血していた。

「――いいんだな!?」


 パティが答える代わりに、モカが「キキーッ!」と歯をむきだした。


 すると、つぎの瞬間には、パティは宙に放りなげられていた。

 バレンツエラはパティの両手をつかみ、左足を軸にして円を描くように横回転をくわえて上体をひねり、遠心力をつけて、パティを人魚に向けて放擲したのだった。


 華奢なパティは、まるで綿毛のように宙を舞った。

 空中でバレンツエラとアルフォンスが視野に入ると、二人が後方へと遠のいていくのがみえた。


 どうやらパティとモカを人魚に近づける代償として、二人はそのあと人魚の攻撃をまともに喰らって、一気にはじきとばされてしまったらしい。

 アルフォンスもバレンツエラも相当に無茶をしてくれたのだ。


 バレンツエラはようやくたちあがったダグラスに激突し、二人で水たまりに落下した。

 アルフォンスは岩壁にたたきつけられてしまったが、ステファンがすぐに駆けよって介抱している――そこまで確認したところで、「キキ!」とモカの声がして、パティはみずからの窮状を思いだし、そうこうしているうちに浅い水たまりに落ちた。


 もともと全身ぐっしょりと濡れているので、あまり気にならなかった。

 どこにも痛みはなかったが、前髪から水がたれてきて視界が不明瞭になり、あわてて手でなぞる。


 モカはだいじょうぶか――そもそもモカがこうしろと発案してきたからこうなっているのだから、無事であってもらわなければ困る。


 しかし、右肩の小ザルを心配しながら顔をあげると、人魚の双眸がさきほどよりずっと近くで、パティをみつめていた。


 ちいさなみずうみをへだてているが、それでもわずか3メートルほどの距離にいる。

 最初の印象はなぜか、肌がきれい、だった。


 しかし、そんなことを思うやいなや、人魚の両目から黒目が消えた――パティの背筋が凍る。


 人魚の眼窩は、不審者への怒りでうずまいている。

 人魚の長い髪が、それにともなってゆるやかに波打つ。

 水と風の属性攻撃を発動させようとしているのだ。

 魔力が全身からみなぎってくるのがわかる。


 バレンツエラたちですら一掃されてしまったのだから、至近距離であの威力をぶつけられたらどうなってしまうのか……あまりの迫力にパティは微動だにできず、目をそらすことさえできない。


 それでもパティは、人魚による魔法攻撃の直撃をうけることはなかった。


 人魚の攻撃が起こる直前に、モカがパティの右肩から跳びはね、みずうみをとびこえてくるくると宙返りしたのち、人魚の目のまえになにかを投げつけ――それによって、人魚の活動がぴたっと停止したからだった。


 人魚の怒りはゆるゆると収縮してしまう。


 小ザルは人魚の浮き島に着地すると、器用に身をひるがえして足場を蹴りあげ、パティに向かって跳んでかえってきた。

 パティはモカの着地点にあわてて駆けより、両手でその身体をうけとめる。


 両手を差しだした体勢で前のめりになったので、あやうくみずうみに落水しかけたが、パティは左脚でなんとか踏みとどまり、右脚をふらふらとふりあげた状態で、やじろべえのようにバランスをとるはめになってしまった。


 それでもなんとか落ち着くと、胸をなでおろし、小ザルといっしょに人魚をうかがう。


 モカが人魚に投げつけたのは、一輪のアマリリスだった。

 小ザルがいたずらで、パティの髪のゴムのむすび目に挿してきたものである。


 ラッパ型のうすいピンクの花びらが、一枚ずつ人魚の目前でしばらく制止したのち、はらはらと舞った。


 その間、人魚はまるで彫像みたいに静止していた。


「ねぇ、どういうこと?」パティは小ザルをもちかえてふりむかせると、その瞳をみつめる。


 すると、長い手足をぶらぶらさせていた小ザルは、右手をあげて人魚をゆびさした。


 そのゆびにうながされるまま、パティがふたたび人魚をみると、ちょうど人魚と目が合った。

 人魚の目は、人間のそれのようにおだやかになっている。


 すると、まるでフラッシュバックするみたいに、パティの脳裏に映像が流れこんできた。


 それは〈王の桟橋〉でマナティの記憶をのぞいたり、さきほどモカの意図を読解したときとおなじ――すなわち、パティの精神感応の魔法が発揮されたのである。


 強い魔力の発動に、パティの身体がのけぞる。

 その瞳がみていたものは、すでに人魚ではなく、人魚が記憶している世界だった――。

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