35 まぼろしの歌
……熟睡から醒めるときの感覚に似ている。
安堵感よりも、倦怠感のほうがさきだつ。
まだ眠っていたい。ずっと寝ていたい。
全身が重く、すぐに意識が遠のきそうになるが、徐々に身体が覚醒へと向かっている。
泥沼の底からせりあがってくるような、ねばねばした壁の長いトンネルを通りすぎているような、奇妙な感覚が不快だった。
しかし、ルイはすぐに思いだす――こうなるまえの記憶が、瞬時によみがえる。
帆船のなかで、仲間たち(あるいは敵さえも)がどんどん消えていってしまう恐怖と不安が胸にせりあがってくる。霧深い森のなかで迷子になったみたいに。
泣きそうになった。
鼻の奥にじんとこみあげて目を刺激する痛みはしっかりとおぼえている。
そしてラウンジで、シャンデリアのきらめきをみた瞬間――ルイは意識をうしなったのである。
ルイはまぶたを開ける。
すると、目前に顔があった。
ルイは思わず「ひぃ!」と悲鳴をあげたが、ほぼ同時にそのぬしも、のけぞりながら絶叫する。
「うわぁ! びっくりするじゃねえか! めざめるならめざめるって言ってくれよ!?」
「――な、なにそれ」
そんな都合のいい失神もないでしょうよ、と抗議しようと思って青筋をたてたところで、ルイは相手がモレロであることに気づいた。
モレロ?
しかもルイが寝転んでいたのは砂浜だった。
露出した腕やふとももに、細かい白い砂がこびりついている。
ぼんやりしたのち気づいたが、全身が濡れている様子はない。
ここはどこだ――?
ルイはまばたきをくりかえす。
空がどんよりと曇っている。
「おーい、起きたぞ!」モレロが両手で拡声するようなしぐさで叫んだ。
すると波打ちぎわにいたアルバート、ディレンツァ、ベリシアがふりむいて歩いてくる。
アルバートは平然としていた。船酔いで顔面蒼白だったくせに。
毒づきたかったが、顔をみて安心してしまっている自分もいて言葉がでなかった。
「よかった。ずいぶん長く気をうしなってたから心配したよ」アルバートが相好をくずす。
「ねぇ、どういうこと?」ルイは気まずさをかくすために、たちあがり、腰まわりについた砂をはらいながら訊ねる。
アルバートはディレンツァをちらりとみる。
しかし、ディレンツァは沈黙のままだったので、ベリシアが代わって返事をした。「それがよくわからないのよ。みんな気づいたら、この浜辺にいたの」
「いまのルイとおなじだよ」とアルバートが同調した。
「オレがいちばん最初だったんだぜ!」モレロが声高に叫んだので、そっちをみる。(おそらくルイ以外は既聴のはずだが)全員の視線がモレロに集まった。「知らないうちに寝転んでたんだよ! 死んじゃったかと思ったぜ!?」
モレロの発言を要約すると、鳥――ノスリになって帆船から飛びだしたモレロは、しばらく海上を滑空していた。
視界に変化はなく、やがてほぼ無心になった。
ルイにはよくわからないが、まじないで動物に変身すると思考力は落ちるそうで、なおさらモレロは雑念にしばられなかったのだろう。
「どう考えてもあの船はあやしいさ。でもだれかの罠ならさ、どっかにほころびがあるんじゃないかと思ったんだよ。ジェラルドのだんなもそう考えてたみたいだけどな」
じっさいジェラルドだけでなく、全員がなんとなくそう思っていたが、なかなか立候補して行動することはできない。
適当にみえてもモレロのほうが勇敢だし、それを思うと少し気恥ずかしい。
それでも結局のところ結論はでなかった。
ルイとおなじで、いつしかまばゆい光につつまれ、急速に失神してしまい、気づいたら浜辺に横臥していたのだという。
「天国にいるのかと思っちゃったぜ、ケケ」
「でも、死んでないっていう保証もないけどね」ベリシアが前髪をいじりながら応える。
全員が思わず黙る。
「――わ、私からするとさ、みんなが急に消えちゃったのよ。船のなかを全力で走りまわっちゃったわ。あんなところに独りでとりのこされるのは、ほんと勘弁」
ルイは両腕をさする。
沈黙がなんとなくこわかった。
「マッコーネル船長が最初に消えちゃったのよ」ベリシアが応える。「それでみんなすごく警戒したんだけど――」
ベリシアの視線を追うと、マッコーネルは遠くの岩にちょこんと腰かけて海をみつめていた。
まるで置物のようだ。
「そのあとはもう、順ぐりだったけど、ほぼ同時に全員ね、まばたきをするうちに消えちゃったようなもの。アルバート王子を筆頭に――」
「ぼくなんか船酔いだったから、余計にわからなかったよ」アルバートがえへへと笑う。ルイはイラっとしたが、アルバートはそれに気づかない。「ただ具合悪くてどうにもならないなか、ずっと歌が聞こえてたような気がするんだけど……夢だったのかな」
「お気楽でいいわね」ルイは冷たい視線を送る。
ディレンツァがふとアルバートをみて、「そうか……」と深くうなずいた。
「どうしたの?」ルイの問いかけに、ディレンツァは腕組みする。「われわれをここにみちびいたものは、そのまぼろしの歌なのかもしれない」
全員の視線がディレンツァに集まる。
アルバートが複雑な顔をしている。
思いのまま発言して、それがディレンツァにとってなんらかのヒントになったものの、自身の記憶や感覚がいちばん不鮮明だったからだろう。
「でもそれに関しては、ぼくの幻聴だった可能性が――」
「そうかもしれない。だが、歌というのはそういう意味じゃない……」ディレンツァは内陸沿いに目をかたむける。浜辺のさきには岩場があり、そこから砂利の坂道がつづき、そこをのぼった一帯には町があるようだ。「われわれは、あの船内からこの町へと誘導されたのだと思う。眠りにいざなわれるようにして――」
と、そこまで語ったところでジェラルド、レナード、ウェルニックが坂道をくだってきた。
三人ともきつねにつままれたような顔つきだ。
「あの三人は町の偵察に行ってきたのよ」とベリシアがルイに教えてくれた。
モレロが三人に向けて目をむく。「なんだ! みんな無事じゃんか!」
「当然じゃないですか、不謹慎な」ウェルニックが真顔で戒める。
ジェラルドが腰に手をすえ、全員をみる。
ルイを視認しても微笑しただけだった。
無事であることを予想していたような顔だ。
「危険はなさそうだ。むしろ平穏そのものの町だな。町の運営も機能し、住人たちの様子もいたって自然。ただ恰好や肌合いなどに、個人差がけっこうある。多種多様な人々がそろっている町だな。大きな港もないのにめずらしい」とジェラルドはひと息で説明する。
「正直、違和感はありますよ。でも、それだけです」ウェルニックが笑顔で私見を述べる。
「男女問わず、ときどき前時代的な衣装だったな、そういう趣味なのか知らないけど。風土がさまざまなだけでなく」レナードもつづく。「まぁ、女性はいつの時代でも魅力的なもんだけどな」そして、にやりとした。
「あなたの目なんか信用できないわよ」ベリシアが呆れ顔になる。
すると「それじゃあんた、自分を否定してる感じになるぜ!」とモレロがかん高い声で笑ったので、ベリシアはこぶしをにぎって、なぐるジェスチャーをした。
「ここにいてもしかたないから、全員で行ってみたらいいんじゃないかしら?」
ルイの提案に全員がうなずいた。
浜辺に置き去りにするわけにはいかないので、ベリシアがさそいにいって、マッコーネルもつれていくことにした。
「やつがくるかもしれんな……」そのとき、ベリシアだけが船長のつぶやきを聞いたが、もともと無軌道で突拍子もない人物なのでさして気にしなかった。