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32 音楽家たちの夢のもつれ

 なだらかにうごめく海と、まるきり動きのない空をみていると、パティのまわりで時の流れがゆるやかに変化したかのようだった。


「かつて、王都にエドバルドという音楽家がいた――」唐突にアルフォンスが手をとめた。「ご存知かな。いま練習していた曲の作者だよ」


「あ、えっと――」パティはあごにひとさし指をそえて思いだそうとつとめるも、いまいち判然としなかった。〈魔導院〉では、音楽史は基礎教養科目だったのだが、やはり暗記はできていない。「すみません、詳しくはわからないです」


「謝ることじゃない」アルフォンスは笑みをこぼす。

 

 パティはもじもじした。


「幼少期より音楽にしたしみ、やがて演奏家として名をあげた俊英だ。のちに作曲家として大成し、劇場音楽にはあまり向かなかったが、その叙情的で優美な作風は特筆すべきもので、後世……つまりいまとなっては信奉者も多い。何十年も昔のことで、楽器性能が作品に追いついていないところがあったが、近代では自筆原典も再評価されている。つまりそれだけ先見性をもちあわせていた人物だったわけだ。若き音楽家は、夢のもつれともいうべき不慮の事故により夭折するのだが、それまでのあいだ、きわめて精神性の高い人生を送ったといえる――」


 パティは、みずからが生まれるよりずっとまえに亡くなった音楽家に思いをはせる。

 なかなか実感できないことだが、それでも意識して想像する――パティの脳裏に「現在」と「知らない過去」の時間軸がひろがった。

 遠い星座をながめているような気分になる。


「精神性が高いというのは、みずからについて考えつづけているということだ。結果、彼は一人の女性と生きる路を選んだ。名をニーナという。彼女は王都の海洋調査官の令嬢だったが、新鋭の声楽家として目下、注目の人だった。いかにも箱入り娘らしく、脚光をあびるのが苦手だが、それゆえにたしなみぶかく、たおやかな人物だったという」


 アルフォンスはふたたび弦をなでるように弾きはじめる。


「二人がどう接近したのかは不明だが、ともに繊細な心をそなえもっていたというから、将来を誓い合う仲になることはふしぎでもないだろう。二人がともに過ごした期間が、とても充実したゆたかな日々だったことは、伝承よりもまず、その頃のエドバルドの作品でわかる。ニーナに捧げられた小歌曲集やピアノ協奏曲は、いまでも演奏会の定番でもあるからね。とても甘美で奥ゆかしいものばかりだ」


 恥ずかしながらパティには、どれもどういう曲か思いだせなかった。

 しかし、聴いてみたくなるエピソードではある。

 〈魔導院〉に帰ったら、フリーダを誘って王立楽団の定期演奏会に申し込んでみようか。

 ひざにのっていたモカが眠ってしまったらしく、静かになった。


「しかし、悲劇が起こる――」アルフォンスは淡々と述べた。


 その平坦な口調がかえって、印象的なほの暗さを感じさせる。


「春の花が気まぐれの風で散るように、つかの間の安寧はやぶられてしまった。内海からおしよせた大海嘯によって、王都の湾岸地域が壊滅する事件が発生したのだ。それはのちにマイニエリ翁の調査によって、四大精霊――水の蛇によるしわざだったということで結論づいている。

 真因も真相も不明だが、そのとき偶然エドバルドは、〈王の桟橋〉海域に停泊していた軍船にいた。帰港間近のことだ。パトロンの要望により、エドバルドは遠洋船に船上楽師として乗船していたのだ。酸鼻をきわめた戦場でも音楽が一瞬の慰撫をもたらすように、長期間船上に滞在する船乗りたちにも余興は必要だったわけだな。

 しかし、それによってエドバルドの乗る船は、高い荒波に呑みこまれて沈没し、行方不明になってしまった。沖へと回避するひまさえなかったのだ」


 詩人の語りくちがおだやかなので、まるで創作された物語のようだったが、臨場感は充分でパティはつばをのむ。

 のどの奥でにぶい音がした。


「湾岸の大混乱のなか捜索がつづけられたが、エドバルドはみつからなかった。法規にともなう捜査期限がきても、エドバルドにかぎらず、ほとんどの船員たちが発見されなかった。ニーナは悲嘆に暮れる。そして、寄る辺なきままにさまよい、やがてこの断崖より身をなげてしまう――」


 パティは硬直する。冷たい水にふれたみたいに。


「その時分は、そういった悲劇が頻発していたのだという。当時の人々の心境をうたう哀歌も多い。人魚の資料館にも、いくらか詩集が保管されている。よかったら手にとってみてほしい。いとなみとは、痛みをうけつぐことだ」


 パティはうなずきながら、手のなかの小ザルをなでる。

 ふさふさの毛がやわらかく、あたたかい。


「内海はかぎられた空間だ。それでも海だから、無慈悲な女王となることもある。いま挙げた一例以外にも、そういった語りぐさは絶えないのだな……」


 アルフォンスは古楽器をわきに置いて、ため息をつきながら薄灰色の雲をみつめた。

 どうやらパティが、内海問題の調査にきたことを知っているらしい。

 あるいは推察したのだろう。

 美しい横顔に、パティは言葉を失う。


「今夜は雨になりそうだ――」すると詩人はパティみて微笑した。

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