31 美貌の詩人の中音域
モカの体毛が栗色のおかげで、パティはなんとか見失わずに済んでいた。
しかしひざ丈ほどの緑地を駆けていく小ザルは、みえかくれをくりかえすので楽観はできない。
いったい、どうしたのだろう?
モカはめだった行動を起こすことがあまりないので、急にこういうことが起こると安閑としていられないところがある。
そんなパティの心情を知ってか知らずか、モカは小躍りするように独走していく。
崖にむけてゆるやかに勾配があがっているが気にしない。
崖の向こうの海にでも関心が湧いたのだろうか――小ザルはヒョコヒョコと、ちいさなあたまを左右にふりながら一直線に駆けあがっていく。
「ねぇ、ちょっと待って……」パティは息切れする。「どうせなら、いっしょにいこうよ……」
幼少の頃は野山を走りまわっていたものだが、〈魔導院〉に召集されてからはデスクワークが増えたり、一日の歩行距離が短くなったこともあり、脚力も体力も衰えていた。
まだ10代前半なのにそれもいけない気がする。
もうちょっと運動しなきゃな……あえぐ息のふしぶしにパティは改心する。
崖淵に近づくにあたってだいぶ傾斜がきつくなって、草原もとぎれ、灰褐色の岩場がむきだしになってきた。
パティは何度かたちどまり、呼吸をととのえ、額の汗をぬぐったりして、なんとかモカに追いついてきた。
小ザルは崖ぎりぎりまでいかずに、手前でたちどまっているようだ。
ちょうどいい、叱ってやろう。
パティはとなりにならぶと、口をとがらせる。「もう、モカったら――!?」
飼い主として声をはりあげようとしたとたん、パティは目前の岩場に人が腰かけていることに気づいた。
モカはその人と対峙していたのだ。
パティは気恥ずかしさに頬をそめる。
しかも、その人が端正で中性的な顔だちで、たぐいまれな美貌のもちぬしだったことが赤面に拍車をかける。
その人のまなざしは、憂愁さをおびていて、なんともいえず魅力的だった。
「あ、あの――すみません」パティはなぜか謝ってしまった。
「こんにちは」その人は声も中性的だったので、性別が判断できなかった。
しかしゆるやかな微笑には敵意がまるでなかったので、パティもほほえみかえす。
「めずらしい面会者がきたものだ。あなたのお友だちかな?」
その人は小ザルをみつめ、それからパティに視線をかたむける。
モカがキキと鳴いた。
「失礼、私の名はアルフォンスです」
岩に浅く腰かけ、右脚をまげ、左脚をのばしている(いわゆる楽な)かっこうであいさつしてきたのだが、少しも非礼は感じないし、マナーが悪い印象さえうけなかった。
口調がおだやかで、ポーズがまるで彫像かなにかのように自然だからかもしれない。
パティはあわてて名乗り(名まえのほかに〈魔導院〉在籍者ということもそえておいた)、それからモカを紹介する。
アルフォンスは目を細めて小ザルをみつめて、「主従関係はあるかもしれないが、人間の同僚よりは、良き理解者なのかもしれないね」とほほえんだ。
モカはキキと笑った。
パティもアルフォンスについては仄聞していた。
というかおそらく、その名を知らない人はあまりいないのではないだろうか。
美しい吟唱を得意とする詩人で、無論その詩作も有名だが、私的な情報が非公開で、正体を知られていないために、伝説化しているところもあった。
初対面のおりにパティが感じたように、性別がわからないことも幻惑的だし、もっと過当な噂としては「歳をとらない」という謎めいたものもあった。
実年齢は公表されていないが、だいぶ年嵩なのだという。
しかし目前にいる詩人は、パティからすればだれでも年長者になってしまうところもあるが、それほど年輩にはみえない。
アルフォンスはずいぶん使いこまれた印象の古木の弦楽器を抱えていた。
竪琴に似ている。
つい魅とれてしまって気づかなかったが、演奏の練習でもしていたのだろうか。
「あ、もしかしたらお邪魔でしたか――」パティはあわあわする。
アルフォンスは口もとに笑みをうかべる。「ここに坐って耳をすましていると、風にもいろいろな音があることがわかる。人生にいろいろなできごとがあるのとおなじようにね」
そして空をみて目を閉じた。
パティは返事に窮してしまった。
しかしこの詩人の話しかたは、相手に返事をもとめていない気がする。
一種の朗読のようだ。
それでも「風の音」というほど、今日は風の強い日でもない。
うすく曇った空は停滞しており、風が雲を吹き流す気配はなかった。
それでもアルフォンスのしているように上空を仰ぐと、空でもまた時間が流れていることを認識できるような気がしてふしぎだ。
「波の音もしますね」耳をすませたパティは感想をもらした。
海もおだやかだったが、入り江をめぐってきて崖に寄せてくる波が、ごつごつした岩場をなでる音も聞こえる。
アルフォンスはパティをみて、うれしそうに口角をあげた。
しばらく沈黙がつづいたのち、「ご存知だろうが、来月王都にて建国記念祭がとりおこなわれる。今年は百年祭であり、おそらく壮大な催しになるだろう」アルフォンスがつぶやく。「それにあわせて知人の音楽家ギュスターヴが、祝典曲の一環として新しい交響曲を初演することになっている。曲はまだ完成していない。重厚な構想だという。もしかしたら未遂で終わるかもしれない。彼はそこで伝統様式の昇華といったテーマをかかげているようだ。技術的にも思想的にも……」
モカがキキと返事をする。
「ゆえに作品が未完になってしまったり、権力の名のもとに演奏が妨碍されたりといったこともあるかもしれない。そこで私は、仮にそうなった場合に、歌曲のひとつでも披露しようかと考えた。いわゆる穴埋め役を買ってでたというわけだ」
パティもうなずく。
「私は曲の暗示を外部にもとめることが多い。外界から授かるという感覚なのだ。よって、この海辺に題材をもとめて来訪した。期限もあるため、王都からあまり離れられないという条件のもと、マイニエリ翁の推薦などもふまえて、この土地に決めたのだ」
パティは師匠の名を聞いて面食らったが、口を挟むのはやめた。
パティが〈魔導院〉に籍をおいているとアルフォンスも承知しているからこそ、わざと名まえをだしたのかもしれない。
「もちろん人魚の歌がじっさいに聴けると思ってやってきたわけではない。ただ調べてみると魅力的な題材でもあったし、少し静かな場所で集中してみたいということもあった。人間は人間の範疇でしか描写できないし、人間の思考でしか微徴を観取できないものだが、雑踏のなかにいて示唆を得ることはあまりないからね」
モカがふたたびキキと鳴く。
アルフォンスは鼠色の空をみて目を細める。
きれいな横顔だった。
「ここに坐っていると、ふつうではない音がする。風や波の音も、王都で聴くものとは似ていない。岸壁を吹きあげる風は、建築物の隙間をぬうように流れる風より原始的だからだろうか? しかし、そうであるがゆえに暗証は多く、はるかに印象的ではある――」
アルフォンスは弦楽器の中音域の弦を弱めにはじいた。
突風にのって舞いあがった鳥が、べつの風にのり疾走していったかのような余韻が残る。
パティがぼんやりしていると、アルフォンスが黙って手招きし、自分の横に腰かけるよううながす。
パティはモカの手をとってひいていき、ひざのうえにのせて坐る。
小ザルはさきほどまでの野放図さがうそのようにおとなしくしたがった。
アルフォンスがくるりと海に向きなおったので、パティもそれにならう。
目前に暗灰色の海がひろがった。
海はうねるように波うち、崖下で水しぶきをあげている。
崖が高いし、風がこわいので、おそらく一人だったらここには坐らなかっただろう。
ちょっとめまいを起こしただけで、落下してしまいそうだ。
それでもアルフォンスの横にいると、みょうな安心感があった。
「人魚の歌がどんなものだったにせよ、やはりそれは人魚にしか歌い得ないものだったにちがいない。だがここで日がな瞑想していると、ふしぎとそれがいまでも、この海のどこかで歌われていて、この耳に聞こえてくるような気になることがある」
アルフォンスがつぶやく。
ひとりごとのようだが、パティにもなんとなく共感できた。
「――そして、そんなふうな歌こそ、きっと私が吟じてみたいものなのだな」
アルフォンスは古楽器でいくつかのコードを弾きはじめた。
パティはそれに耳をすませながら黙っていた。モカも身じろぎひとつしない。




